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道ごころ 平成14年6月号掲載
神楽岡・宗忠神社ご鎮座百四十年記念祝祭によせて(下)
春秋の例大祭をはじめお参りするたびに感嘆するのは、宗忠神社の鎮座する洛東吉田山の南端、神楽岡のたたずまいです。
 ゆるやかな参道をのぼり、手水舎で清めて拝殿の前に立ちます。間もなく、千古の森に鎮まるご神殿からの神機につつまれた清(すが)しくも厳(おごそ)かなときがやってきます。しばしの祈りの後、拝殿を背に数歩さがりますと東山の山々、特に大きく大文字山が迫って来ます。北の方に目をやりますと、京の鎮めといわれる比叡山が望見できます。参道の正面東には、名刹(めいさつ)真(しん)如(にょ)堂(どう)がどっしりと構(かま)え、さらにその南にはこれまた由緒(ゆいしょ)ある黒谷(くろだに)と呼ばれる大寺院の境内が広がっています。
 よくぞあの激動の維新(いしん)前夜の江戸最末期に、あのように好適な地を得られたものと、それだけでも京都布教に邁進(まいしん)された赤木忠春高弟の活眼(かつがん)に感服します。この吉田山の主(ぬし)ともいうべき所は、徒然草(つれづれぐさ)で有名な吉田兼好を生んだ吉田神社です。この神社は今日の神社本庁のような役を担っていて、当時、全国の神社を束(たば)ねていました。そのお心が今に伺われるのが、吉田神社の境内にあるその名も「大元(だいげん)宮(ぐう)」というお社です。これは全国の神社の御斎神のご分霊をおまつりする神社で、吉田神社が世話役をさせていただいているというまさに八百萬の神々に対する敬神の念からでありましょう、自(みずか)らのご本殿より高台のしかも東南の地に建立されています。しかも、その大元宮からさらに東南の高台の境内地を、吉田神社は宗忠神社ご鎮座の地として提供して下さっているのです。このようなことができたのは、孝明天皇から賜った大明神号ということもありましょうが、当時の吉田神社宮司のご母堂が赤木高弟のお取り次ぎで奇跡的なおかげをいただいていたこともあったと思われます。それだけ吉田神社の宮司ご自身が「宗忠大明神」へのご信仰があつかったということであろうと思います。赤木高弟は大きな感動をもってこの地への宗忠神社ご創建を決心されるとともに、倉吉(鳥取県)の篤信家船木甚市氏らの力を得て、金百両をその御礼として吉田神社にお供えされています。
 しかも、この地は、教祖神がご在世中、伊勢参宮(文政七年・・一八二四)に際し御自らお通りになっているところで、そのことを明らかにする一節が教書の中の「伊勢参宮心(こころ)覚(おぼえ)」にあります。
 「……まず吉田日本六十余州御神を勧請有し霊地拝し、それより真如堂、黒谷へ参り……」がそのところです。
 まさかその三十八年後の文久二年(一八六二)、ご自身を斎神とするその名も「宗忠神社」がこの地に建立されようとは、教祖宗忠神も考えもつかれなかったことと思いますし、それだけに“ご神慮”の尊さを強く感じます。


 備前岡山に誕生した「御道」が、教祖神ご昇天後の間もない内に王城の地京都に布教され、時の関白九條(くじょう)尚忠(ひさただ)公、後の関白二條(にじょう)斉敬(なりゆき)公ら十指に余る公卿(くぎょう)方が入信するところとなり、ついには孝明天皇のご信仰をかたじけなくするまでに至ったことは、ひとえに赤木忠春高弟の熱誠によることは言を俟(ま)ちません。しかし、その元は言うまでもなく、教祖神の天命直授によって明らかになった天照大御神の“真実体”にあります。それは孝明天皇に御前講演申し上げた赤木先生に賜った御製(ぎょせい)に明らかです。
 孝明天皇は赤木先生のご進講が終わるや、「玉(たま)鉾(ぼこ)の道の御国(みくに)にあらはれて日月(ひつき)とならぶ宗忠の神」と詠まれたのです。この「日月とならぶ宗忠の神」の一条に、赤木高弟が何を説かれ、孝明天皇が何を多とされたかが分かります。すなわち皇祖天照大御神は同時に天地の親神であり、そのご分心の鎮まる人たるもの、

 天照らす神のみ心人ごころひとつなれば生き通しなり(御歌四号)

の、本来天地一体の存在なりとする教祖神の御自らのご体験にもとづく神観・人間観に感銘されたゆえの孝明天皇をはじめとする公卿方の御道信仰であったのです。この日本国が異国の人の手に落ちるかもしれないまさに危急存亡の秋(とき)、時の天皇様をはじめとする公卿方のお心の強い支えとなったのが、教祖神の明らかにされた御道であったのです。


 すでに生きた天照大御神の道を説く神道として赤木高弟を注目していた時の関白九條尚忠公は、ある日、そのご息女夙(あさ)子(こ)姫の病の平癒を願って赤木高弟をお屋敷に招かれました。高弟は病の床に伏す夙子姫に大御神様の有り難いことを説き、祈り、ご神徳を取り次ぎました。その日の深夜、赤木先生が借り住まいしていた所へ九條家から黒塗(ぬ)りのお駕(か)籠(ご)が着き、高弟は九條家へ正門から招き入れられました。お屋敷では、尚忠公に迎えられ夙子姫手ずからのお茶を出されて歓待されたのでした。姫は赤木高弟の一度のお取り次ぎで本復されていたのです。なお、これも十年前の宗忠神社ご鎮座百三十年の年に、真弓常忠皇学館大学教授(現八坂神社宮司)の調査研究で明らかになったことですが、この時すでに九條夙子様は孝明天皇のお后(きさき)であられたのでした。いくら御道のこととはいえ、天皇様のお后に道を説き、お取り次ぎするのは恐れ多いこと、またお后様がおかげを受けられたなど口の端にのぼるのももったいないことと、あくまで夙子様を九條家のお姫様で通された赤木高弟ら当時の先輩方の思慮深さに頭が下がります。
 夙子様は明治十一年、すでに英照皇太后のお立場で東京の青山御所に、今日、本教の教楽となっています吉備楽の一行を招いて演奏会を開いていらっしゃいます。そこには明治天皇の皇后陛下や、すでに太政大臣(だじょうだいじん)に就任していた三條(さんじょう)實美(さねとみ)公らも陪席(ばいせき)しています。
 なお、この頃、高弟山野定泰先生は、勅命により明治天皇に「日本神道に就(つ)いて」と題する御前講演の栄に浴していることも、ここに付記しておかなくてはならない尊い史実です。
 夙子様の御道ご信仰がいかに強いものであったかは、孝明天皇の崩御(ほうぎょ)に際し「(注)吉田山の神楽岡への御陵ご造営」を切望されたことにも伺えます。
 明治二十年一月三十日、英照皇太后となられていた夙子様は、皇后様とともに神楽岡・宗忠神社に参拝されて孝明天皇の二十年祭をおつとめになっています。これも、十年前の宗忠神社大改造に際してご神庫で見つかったものですが、菊のご紋入りの京焼きになるひと揃いの食器二組と二つの手あぶりの火鉢が出てきました。これは御二方のご参拝に際し、神社が急遽(きょ)ご昼食用に用意したものであったことが分かりました。
 ご鎮座百四十年の神楽岡・宗忠神社に重石(おもし)のごとき孝明天皇、英照皇太后夙子様のご信仰。これは、私たちの大きな誇りであると同時に、その栄誉に恥じない宗教活動を貫かねばならない責任というまさに大きな重石となっています。


 注 神道宗教(第一五〇号)武田秀章著「孝明天皇大喪儀・山陵造営の一考察」より