黒住教の社会福祉活動について紹介します。黒住教は福祉活動にも精力的に従事しており、日夜を問わず、社会全体の福祉の向上に努めています。

昭和21年(1946年)、戦災孤児をはじめ親が育てることができない子供たちのための施設として、5代教主・黒住宗和は、児童養護施設「天心寮」を、医師で黒住教教師である山本徳一氏に委ね、岡山県赤磐市赤坂に創設しました。現在は徳一氏の曾孫である兼士氏が寮長を担い、7代教主・黒住宗道が理事をつとめています。

昭和32年(1957年)、後に川崎医科大学を中心とした川崎学園を創設した川崎祐宣氏が、社会福祉法人「旭川荘」を創設しました。氏と親交が深かった5代教主・黒住宗和は理事として創設のときから参画し、現在は6代教主・黒住宗晴(現名誉教主)が理事をつとめています。

昭和40年(1965年)4月、6代教主・黒住宗晴(当時黒住教青年連盟長)の呼びかけにより、青年連盟員が日本各地で「中・四国を対象に重症心身障害児の施設を造ろう」の社会活動を半年間にわたって展開しました。青年達は重障児の生活を写し拡大したパネル写真を持ち、日曜日や祭日ごとに中四国の各都市並びに大阪府下、東京都下の街頭に立って、重障児の現状を訴えて募金につとめました。また、手植えの田植えや手刈りのい草刈りにもつとめてその浄財を捧げました。
 その一方で、青年連盟長の宗晴は5代教主・黒住宗和の同行を得て日本画家である奥村土牛氏、伊東深水氏、児玉希望氏や金島桂華氏、また宗教界のトップを訪ねて芸術品の提供を呼びかけました。さらに洋画家の中川一政氏、林武氏、そして備前焼の金重陶陽氏や藤原啓氏をはじめ多数の陶芸家から献納された芸術品合計450余点をもって、地元岡山の天満屋百貨店のホールでチャリティーセールを開催して重障児運動を盛り上げました。

この運動は続いて山陽新聞社が社告を出しての一大キャンペーンとなり、昭和42年(1967年)4月、西日本で初めての本格的な重障児施設が旭川荘の中に「旭川児童院」として開院しました。以来、黒住教婦人会を中心に毎週の“おしめたたみ”などの奉仕活動が続けられて今日に至っています。平成15年(2003年)、黒住教婦人会はこの長年にわたる奉仕活動が認められ厚生労働大臣表彰を受けました。

昭和43年(1968年)、旭川児童院が開院した翌年のこの年、当時まだ本土復帰のなっていなかった沖縄から、知的障害者施設につとめる一人の青年を旭川荘に招きました。その後、教団本部の神道山への移転運動のために途絶えていましたが、昭和56年(1981年)、アジア各国の社会福祉施設職員を黒住教が招いて、研修の場を提供する“福祉外交”を始めました。平成7年(1995年)までに57名の方たちがタイ、韓国、フィリピン、シンガポール、マレーシアなどから訪れて旭川荘で研修を重ねました。現在は旭川荘自体の招きでこの福祉外交は継続されています。

「旭川荘」への奉仕を軸に、各地の教会所がそれぞれの地域における福祉施設や公共の場への奉仕活動を続けていました。「教祖神150年大祭」が執り行われた平成12年(2000年)より、毎年5月の月末の1日、全国教会所一斉社会奉仕を「まることボランティアの日」と名付け、日本各地で奉仕活動を実施しています。

平成7年(1995年)1月17日に発生した阪神淡路大震災に際し、1週間後の1月23日から3月14日まで、神戸市立兵庫中学校を中心に周辺の小学校などに避難している人々に向けて、現地で温かい食事を作って提供する奉仕活動を行いました。この活動は「わたがし作戦50日」と呼び、毎日5,000食、51日間にわたって続けられました。これは、黒住教が“わたがし”の心棒の割り箸役になり、多くの県民市民の協力を得て実行できたことを表しています。
 神道山にかけつけたボランティアの皆さんが下ごしらえをした食材を、20余名がマイクロバスに乗って高速道路を走って神戸へ運び食事を作るという工程を、一晩泊まりのピストン往復で51日間続きました。神戸までの道のりに不可欠な交通の便であるマイクロバス(ドライバー付き)やガソリンはバス会社や石油会社から無償で提供していただき、現地での調理に必要なプロパンガスも燃料会社から無償提供をしていただきました。食材はすべて岡山県民をはじめ近県各地から届けられたもので、なかには遠く北海道網走市の一老婦人からシャケ300尾もありました。こうした皆さまの多大なるご協力のもとで、被災した神戸の方々にできたての温かい食事を届けることができました。
 なお、皆さまから寄せられた浄財や食材などは51日後のわたがし作戦終了時には多く残ってしまい、いずれも神戸市当局に「岡山ボランティアグループ」として寄附いたしました。
 また、平成23年(2011年)の東日本大震災に際しては、本部大教殿をはじめ全国の教会所で慰霊と一日も早い復興、原発事故の収束を祈願し、岡山駅前等で一カ月の街頭募金活動を行いました。


平成6年(1994年)、7代教主・黒住宗道(当時副教主)を代表にNGO「リコーダーをおくる会」を発足。日本の小中学生が使わなくなったリコーダー(縦笛)を集め、NEHA(ネハ・ネグロス教育里親運動)の協力により、フィリピンの子供たちにそのリコーダーを贈る活動を行っています。平成21年(2009年)12月までに約9,000本が贈られ、フィリピンと日本の子供たちとの文通や学校間での姉妹校締結、交流演奏会にまで発展しています。また、オリジナルの英語対訳絵本を作製して寄贈しています。平成16年(2004年)末に発生し、未曾有の惨事を招いたスマトラ島沖地震・インド洋大津波に際して、被災したインドネシア、インド、スリランカなどの子供たちに、かねてから本教とご縁の深いAMDA(アジア医師連絡協議会)菅波茂代表を通じて、この英語対訳絵本1,000冊を寄贈しています。

平成元年(1989年)以来、教団本部が神道山に移った後の大元の建物の一部を、社会福祉法人「岡山いのちの電話協会」に無償で提供しています。この協会は、自殺防止のために電話での相談を受け付ける活動を行っています。黒住教は、そのボランティアの方々の昼夜を問わない奉仕活動に敬意を表し、無料駐車場と研修会会場付きで本教建物をお使いいただいています。平成15年(2003年)からは、犯罪被害者を電話相談でサポートしたり、被害当事者同士の連係をとり行い、またこの問題を広く社会に訴え理解を深めてもらうための運動を展開するグループの支援も行っています。

平成12年(2000年)、「教祖神150年大祭」斎行に際し、車椅子をお使いの方でもスムーズにご参拝していただけるように、ベルト式エスカレーター「動く参道」を設置しました。これは神道山の正参道口から大教殿までの3本118mと、さらに日拝壇までの2本65mからなるもので、車椅子利用者はもとより、年輩者の方からも好評を得ています。

6代教主・黒住宗晴(現名誉教主)は前述の社会福祉法人旭川荘理事を5代教主から引き継いでつとめる一方、昭和56年(1981年)、請われて岡山県立岡山西養護学校の教育後援会会長に就任し、また児童養護施設社会福祉法人南野育成園後援会会長、不登校児のための学校法人希望学園の後援会会長代行、社会福祉法人山陽新聞社会事業団の理事をつとめています。