奉祝大元・宗忠神社
ご鎮座百三十年記念祝祭
平成27年10月号掲載
黒住教立教71年、神楽岡・宗忠神社建立23年、神道黒住派として別派独立して9年という今から130年前の明治18年(1885)に、教祖宗忠神ご降誕、ご立教、ご昇天の地、霊地大元に宗忠神社がご鎮座なりました。さらに申し上げれば、その年は教祖神ご降誕105年、ご昇天35年という年でした。100年以上も前の話になると、得てして「昔のこと」と一括りにして語りがちですが、戦後70年、神道山ご遷座41年、平成27年、西暦2015年というように、今日から遡っての時間の経過にも思いを馳せながら当時の先輩方のご心中を拝察すると、いよいよ宗忠神社竣工の時を迎えたその大歓喜のほどが強く実感できます。
とりわけ、当時御年37歳であられた三代宗篤様にとって、ご尊父の二代宗信様がご昇天になった時が若干8歳(数え9歳)で、その頃は教祖神直門の高弟・門人方が中心となってお道(教団)の取り運びがなされていた時代でしたが、明治という新しい御代の到来とともに表舞台に立って黒住講社の結成と認可(明治5年)、そして別派独立(明治9年)に奔走された激動・激務の日々の結実として宗忠神社ご鎮座の日を迎えられたということを思うと、万感胸に迫るものがあります。
また、明治12年(1879)に霊地大元に宗忠神社建立が決せられて以来、三代様をお支えして、副管長の森下景端高弟、30名の新築係員、そして全国各地の新築世話係諸氏が中心となって、教祖神への報恩感謝の心ひとつに尽力された先輩方の“愛教の誠”を、私たちは決して忘れてはなりません。
思い返せば、黒住教立教190年と宗忠神社ご鎮座120年を寿いだ10年前、私たちは霊地大元の耐震補強改修工事を中心とした記念事業を、お道づれの皆様のご芳志により実施させていただきました。当時、すでに立教200年以降を視野に入れた「将来のための基盤強化」の実践でしたが、その事業の柱の一つが教祖記念館の耐震補強改修工事でした。
教祖神最晩年のお住まいであり最初の大教殿である教祖記念館は、宗忠神社建立に際して牽引して移築されていたため、御神体のお社を遷座しての大がかりな補強改修工事が行われ、私は現宮司である弟の忠親と共に奉仕しました。かつて同様にお社のご遷座をつとめられた教主様から伺ってはおりましたが、その時に目の当たりにさせていただいたのが、天照大御神様のお鎮まりになる神明造りのお社にはっきりと残る五代様の手の跡でした。
昭和20年6月29日未明の岡山大空襲に際して、五代様は高さ約180cm・重さ約70kgものお社を、教祖記念館御神殿からたった一人で庭に“動座”されたのです。わが身に代えてでも御神体をお守りするという凄まじいまでのお心による、正に“神業”でした。お社の御扉に刻み込まれた5本の指跡と、めり込んだ手のひらの跡、そして背面に残る無数の手跡を浄闇の中に拝して感動に打ち震えたことを、今も鮮やかに思い出します。
70年前、五代様がお社のご動座につとめられていた時、大教殿(現黒住教武道館)では瀬尾礼蔵司教が、宗忠神社では宮口清吉勤番が、被弾するならば共に焼け失せる覚悟でお祓いを上げ続けられていたとのことです。
4年がかりの“祭り年”の締め括りである大元・宗忠神社「ご鎮座百三十年記念祝祭」は、すでに歩み始めている立教三世紀の本格的なスタートの御祭りです。先人・先輩諸氏が築き上げ、守り抜いて来られた“信仰の道”を、しっかりと受け継ぎ、次代に繋いでいくことの大事を、それが決して容易なことではない時代なればこそ、あらためて強く思います。
「教祖宗忠神おわしますればこそ!
教祖様、ありがとうございます」
喜びと感謝の心で、ともに永遠の開運の道を歩ませていただきましょう!