神道の教えの大元
— 教派神道連合会結成120周年記念「神道講座」を受講して —
平成27年9月号掲載
本誌先月号に紹介されましたように、去る6月11日、「教派神道連合会結成120周年記念式典」が、三笠宮家の彬子女王殿下おなりの下に國學院大學において開催され、私は賢所遥拝式の斎主をつとめる栄に浴しました。現在12派から成る教派連の、結成以来の“長兄”である本教への敬意の表れとして拝命した斎主の大役を、謹んでつとめさせていただきました。
記念式典に先駆けて前日から開講されたのが、國學院大學の教授陣を主な講師として行われた「神道講座」でした。昭和24年から41年まで開かれていた同講座がこの節目の年を機に復活され、私も学生の一人として受講したのですが、2コマ(計3時間)に亘って行われた「神道史(1)(2)」を、特に感銘深く学ばせていただきました。
講師は神道史研究の第一人者である岡田莊司神道文化学部教授で、「各地方でのそれぞれの氏子の信仰と、神社ごとに異なる伝統に非常に深く関わる神道を全体として理解するための重要な視点は、神道の歴史をどう学ぶかである」と、神道史を学習する意義を明確にして、古代すなわち律令国家体制の時代と、中世すなわち平安末期から戦国時代にかけての神道の歴史について講義して下さいました。
前半の主題は古代の神道史で、天皇即位時の大嘗祭に始まる朝廷祭祀に集約される当時の神道は、自然災害や疫病などの災いから国を守るための祭りと祓いの儀式で、唯一の大祀である大嘗祭と神嘗祭・新嘗祭などの中祀と数々の小祀に分類される宮中祭祀、そして伊勢の神宮の鎮座と式年遷宮の始まりについて講義がなされました。
後半の主題であった中世の神道史においても、伊勢の神宮が最も重要な存在として紹介され、当時の神道の特質として仏教とりわけ末法思想の影響により個人の苦しみを救済する現世利益的な傾向が強まったことが指摘され、伊勢神道と吉田神道についても言及されました。吉田神道については、講義の中で詳しくは語られませんでしたが、参考資料として配布された「資料で見る神社と神道の歴史-古代・中世を中心に-」(國學院大學神道資料館発行)の「中世後期・近世の神社」の冒頭は吉田神道の解説で、大元宮の写真説明には「京の東郊、吉田山にある。斎場所は神々が降臨する場で、大元宮は吉田神道の中心」と明記され、江戸時代の神職制度で吉田家の中心的立場が定められた「諸社禰宜神主法度」などが紹介されていました。
2コマ3時間に及ぶ講義のすべてを紹介するつもりはありませんが、古代と中世の神道史の主なポイントを書き上げてみただけでも、本教の立ち位置というか、神道の本道を歩ませていただいている有り難さに気付かせてもらえるかと思います。
「伊勢の神宮、とりわけ皇大神宮(内宮)を信奉して皇室を重んじ、天照大御神の御開運を常に祈って世界大和と万民和楽のために誠を尽くす」という、教祖宗忠神が教え示して導いて下さった御手振り(御瀬踏)の確かさ・正しさを、あらためて感動とともに実感させていただいた、この度の「神道講座」でありました。
嘉永6年(1853)の「伊勢千人参り」に際して、外宮の神官で国学者の足代弘訓師から「神道の教えの大元」と称され、激動の幕末期に孝明天皇の信仰を忝うして吉田山の神楽岡の地を賜って文久2年(1862)に宗忠神社が建立されて慶応元年(1865)に勅願所の指定を受け、明治5年(1872)に「黒住講社」として公認され、9年(1876)に「神道黒住派」として他教に先駆けて“別派独立”を許され、さらに16年(1883)には山野定泰大人が「日本神道に就いて」と題して明治天皇への御前講演を拝命…。明治28年(1895)の結成以来「教派神道連合会」の毎月の理事会の開催日が本教の立教の日を重んじて「11日」とされていることも、国家神道の枠組みを離れる“別派独立”の魁を成し遂げた黒住教に対する敬意の表れとのことですが、一連の本教の栄えある歴史を、今の私たちの信仰の礎として一層の信心に励んでまいらねばとの思いを新たにしたことです。
なお、今回「神道史」の講師をつとめて下さった岡田教授は、私の弟である黒住忠親宗忠神社宮司の國學院大学生時代の指導教授で、「記念式典」後の「祝賀会」の席で、兄弟でお礼を申し上げることができました。