核兵器廃絶をめざして

平成27年8月号掲載

 広島に原爆が投下されて70年の今月6日、キリスト教カトリックの世界的な社会奉仕集団である聖エジディオ共同体と(公財)世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会、および世界連邦日本宗教委員会が主催し、駐日イタリア大使館、広島市、広島県宗教連盟の後援による「終戦70年シンポジウム『二度と戦争は起こさない-核兵器廃絶をめざして-』」が、広島市内のホテルを会場に開催されることになりました。

 エジディオ共同体が手本とするカトリックの聖人フランチェスコが生きたイタリア・アッシジで、ローマ法王の呼び掛けによって開かれた「世界平和のための祈りの集い」に2度も招かれ、WCRP日本委員会の理事・総合企画委員という実務に関わりながら、世連日宗委(略称)の副会長を仰せつかっているという立場から、主催三団体からの要請により、私はこのシンポジウムの「今後の核兵器廃絶への行動」というセッション(会議)でパネリストとして登壇することになりました。今月は、私の発言原稿を紹介させていただきます。

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 この地で人類史上初めて原子爆弾が兵器として使用されて70年の今日、一瞬にして、また艱難辛苦の末に尊い命を奪われた数えきれない犠牲者の御霊の安寧を祈るとともに、今もなお後遺症に苦しむ人々に対して衷心からのお見舞いを申し上げます。そして、何としても平和を守り続けなければならない責務を心に強く感じながら、世界の平和のために祈り献身することを誓うものです。

 「核兵器廃絶をめざして」とサブタイトルされたシンポジウムの「今後の核兵器廃絶への行動」のセッションですから、私は「核兵器廃絶」に限定して発言させていただきます。何故このような当たり前のことを申し上げるかと言うと、「核兵器廃絶」の議論がいつの間にか「核」すなわち「原子力」の廃絶・撤廃の議論に発展したり、「兵器」そのものの廃絶・撤廃の論議になったりして、論点が曖昧になってはならないと考えるからです。

 まず、「原子力の平和利用」とも表現される「原子力発電」に依存する社会を宗教者として容認できるものではありませんが、原発に対して「即撤廃」とか「絶対反対」がまかり通るほど事態が単純ではないことは明らかです。今すぐにでも廃絶・撤廃すべきは「原子力の戦争利用」である「核兵器」であると、目的を明確にしなければならないと思います。それさえも困難極まりないのが世界の現実であることを、先のNPT再検討会議の結果が物語っていると言わざるを得ないのが辛いところですが…。

 次に、「平和」を議論する際に必ず直面する「戦ってでも平和を守らねばならない」という考え方です。宗教者として戦争を是認するものでは当然ありませんが、多くの現代日本人が考えるほど「平和論」が単純なものではないことも明白です。平和を守るために軍備・武装する「抑止論」が必要とされない世の中を願いながら、相手のある国際関係の現実を無視するわけにもいきません。認められる兵器と認められない兵器などあってはならないはずですけれど、それでも、「無差別大量破壊兵器」の非人道性と「未来永劫放射能汚染」という地球上の全生命を抹殺・根絶する危険性を併せ持つ「核兵器」の存在だけは「絶対反対」と、世界中の人々の意思統一が図られなければならないと信じます。

 ところで黒住教は、日本古来の信仰伝統である神道を基盤としています。神道の特長である森羅万象あらゆる存在やはたらきを神として祀って信奉してきた八百萬神信仰を拠り所とし、とりわけ、遥か太古の昔から日の神と称えられてきた天照大御神を万物の親神として崇めて八百萬の神々の大元として位置づける、いわば“一神教的”な特徴があります。ただし、“一神教的”と言っても、太陽に象徴される大御神を崇拝しているのですから、信仰上で敵対するものを見つけることはできません。宗教・宗派・教団が異なっても、すべからく八百萬神の一つと認められるので、必然的に他者への寛容性が黒住教の持ち味といえます。

 一切万物が神々の尊きはたらきの中にあるという私たちの教義に照らし合わせても、議論の余地のない絶対悪が「核兵器」だと断言せざるを得ません。「核兵器廃絶」は、たとえどれほどの長い時間を要しようとも、いつの日か必ず達成しなければならない人類最大の命題と心得て、祈りと行動を世界の宗教者の方々と共に実践し続ける決意を新たにして、私の発言といたします。