「立教二百年を迎えた黒住教について」(5) (宗教新聞フォーラムでの講演報告)
平成26年12月号掲載
引き続き、「宗教新聞フォーラム」における講演要旨を同紙より転載させていただきます。
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人生は「生き通し」(承前)
幕末動乱の時代、宗忠の没後、京都で布教した高弟の赤木忠春が関白の九條尚忠(ひさただ)邸に、裏門から招かれ、息女夙子(あさこ)姫に「お取り次ぎ」をすることがありました。病気がどうしても治らず、悩んでいた時に、忠春のうわさを聞いたと思われます。病が癒えると、正門から招かれるようになり、すでに夙子姫が孝明天皇の后(きさき)だったことから、孝明天皇に御前講演をするという栄誉に浴しました。この時、「玉鉾の道の御国にあらわれて 日月と並ぶ宗忠の神」の御製を賜ったと言われています。この御製は正式には伝わっていないので、いわば幻の御製です。大阪天満宮の寺井家とは濃い親戚ですが、先々代の宮司が戦前の宮内省に奉職していた時、それが書かれているものを見たことがあると教えてくれましたが、まだ確認できていません。
娘の病が癒やされた九條尚忠の働きかけで安政3年(1856)、宗忠に対して朝廷から大明神号が授けられました。そして、最後の関白となった二條斉敬(なりゆき)の時、文久2年(1862)に、京都の神楽(かぐら)岡(おか)に、吉田神社から境内地を拝領して宗忠神社が建立されました。鎮座に際し、宗忠神の教えを拝(おろが)んで写して供え奉るという詞書(ことばが)きをして「限りなき天照る神とわが心 へだてなければ生き通しなり」という二條斉敬の書写した教祖神詠が奉じられています。同年に三條實美(さね とみ)が差し出した入門の誓い「神文(しんもん)書」には、「神文の事。かたじけなくも天地同体の一心動かすべからず。よって謹んで神文奉るものなり。奉 宗忠大明神」とあります。公武合体を推し進めた九條尚忠と二條斉敬とともに、攘夷論者で若き勤王の志士たちの精神的な支えであった三條實美も宗忠大明神を尊崇していたのは、歴史家も驚く事実です。翌文久3年には、会津藩・薩摩藩らの公武合体派が、長州藩が中心の尊皇攘夷派を京都から追放した「8月18日の政変」があり、七卿が都落ちするという、維新前夜の激動の時代のことでした。
天照大御神の御開運を祈る
宗忠は在世中、6度にわたり伊勢神宮に参拝しています。「神風や伊勢とこことはへだつれど 心は宮の内にこそ在れ」と、備前中野の地にいながら、恋い焦がれるような思いで伊勢神宮を尊崇し、内宮(ないくう)の天照大御神のもとへ、往復一カ月をかけてお参りしていたのです。たびたびの参拝に、伊勢神宮の神職から「何か特別な願いがあってのことか」と聞かれ、わが願い、わが祈りはただ一つ、われただひとえに、「謹みて天照大御神の御開運を祈り奉る」(御開運の祈り)と答えています。私たちは日に何度もこの御開運の祈りを唱えています。いつも唱える祈りなので私たちには不思議でないのですが、「コペルニクス的転換の祈り」と言う人もいます。自分の開運ではなく、神の開運を神に祈る祈りだからです。
親孝行一筋の宗忠は、幼い頃から両親の長寿をひたすら神に祈り続け、真の親孝行を求めて志を立てたほどだったからこそ、両親の相次ぐ昇天に悲嘆し、すなわち孝なるが故に苦しみ、ついに死を覚悟しながらも昇る朝日に両親の姿を見て生きる気力を得るという孝に救われ、やがて天照大御神と私たちが親子の関係に他ならないと孝に悟ります。高弟の赤木忠春は「親の親その親々をたずぬれば 天照らします日の大御神」と詠んでいます。
先祖と私たちの関係も親子関係ですから、黒住教には先祖の祟りという発想はありません。もしかすると、「助けてくれ」という兆しはあるかもしれませんが、その場合は、親としての本来のはたらきをして頂けるよう、他の先祖に願い、宗忠神のお導きを祈ります。
孝の道一筋で宗忠が悟りを開いたことから、親子のかかわりが教えの中心となっています。天照大御神の御開運を祈るのも親孝行の思いからで、万物の親神である天照大御神に開運して頂くことにより、その御徳の中で、私たちが幸せの恩恵にあずかることができると信ずればこそ、大御神に大御神の御開運を祈るのです。
宗忠の生涯6度の伊勢参りの伝統は受け継がれ、没後3年の嘉永6年(1853)には千人で伊勢参りをしています。一行が伊勢の宮川にさしかかったとき、足の不自由な人がいて、岡本京左衛門という門人が一心にお取り次ぎをしたところ、立てるようになりました。これが伊勢の町で評判となり騒ぎになったため、人心を惑わすものとして京左衛門は捕らえられてしまいます。そして、国学者でもある外宮(げくう)の神官・足代弘訓(あじろ・ひろのり)の立ち会いで吟味が始まったのですが、京左衛門が命懸けで説く黒住教の教えに足代弘訓は感銘し、「神道の大元はここ伊勢だが、教えの大元は備前の中野なり」と述懐したということです。今も、近鉄伊勢市駅の近くに足代弘訓の墓があります。
当時の先輩たちはそれを喜び、宗忠の生誕地を霊地大元と呼ぶようになり、明治18年(1885)に宗忠神社が建立されると、大元神社と通称されました。
その後、都市化が進んだため、昭和49年(1974)に、壮大な日の出が拝める岡山市北区尾上の神道山(しんとうざん)に教団本部を移転しました。約十万坪の境内地には、本部神殿の「大教殿」をはじめ、教祖宗忠を中心とする代々の教主の墓、信者の分骨墓である「お道づれ生族(せいぞく)の墓」のある「奥津城(おくつき)」があり、山頂の「日拝所」では毎朝、教主を先達に「日拝式」が執り行われています。立教二百年の今年は、神道山ご遷座四十年の年でもあるのです。とりわけ、神道山時代は、現教主を中心に社会福祉活動や宗際活動に積極的に取り組み、祈りと奉仕に誠を尽くしていますが、具体的な事例は配布している資料をご覧下さい。
長時間ご清聴いただき、まことに有り難うございました。以上、「立教二百年を迎えた黒住教について」と題しての講演をひとまず終わらせていただきます。有り難うございました。