「立教二百年を迎えた黒住教について」(2)
(宗教新聞フォーラムでの講演報告)

平成26年9月号掲載

 先月に引き続いて、「宗教新聞フォーラム」における講演要旨を同紙より転載させていただきます。

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生きて神となる

 宗忠降誕を記す年譜には、安永9年庚子(かのえね)、11月戊子(つちのえね)、26日庚子と干支(えと)が記されています。子の年の子の月の子の日の冬至の、日の出の時刻に生まれたのです。私はお道づれ(信者)に対しては、このことの有り難さを強調しています。偶然かもしれませんが、信仰する者として、教祖宗忠が大きなご神慮の中で誕生したことに、感動を覚えるからです。

 名君とされる池田光政を初代藩主とする備前(びぜん)岡山藩は儒教を重んじ、宗教政策として、淫祠(いんし)邪教とされる社や祠(ほこら)を整理しました。光政は陽明学者・熊沢蕃山を招聘(しょうへい)し、寛永18年(1641)には全国初の藩校・花畠教場を開校し、寛文10年(1670)には日本最古の庶民の学校・閑谷学校を開いています。熊沢蕃山は京都の生まれで、光政の祖父・輝政の女婿であった丹後(たんご)国宮津藩主京極高広の紹介で、光政の児小姓(ち ご しょう)役になっています。その後、島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず、一旦は池田家を離れ、近江(おうみ)国の祖父の家へ戻り、中江藤樹の門下で陽明学を学びます。藩主となった光政公は、幼馴染(なじみ)の蕃山を招き、補佐役として重用し、現実主義的な藩風をつくったのです。

 そうした藩風で育った宗忠も実践を重んじ、幼少期の親孝行の逸話(いつわ)がいくつも残されていますが、実際、何度も藩主に表彰され、中野の孝行息子と評判にもなっていたようです。宗忠は末子の三男で、二人の兄は武士として身を立てるため家を出、早逝していたことも、親孝行の背景にはあったと思います。干支の始まりである子(ね)が重なる日である冬至の日の出の刻に生まれ、唯一残った男子として期待されて育てられたのでしょう。

 幼少期は真面目すぎるほどの性格で、どちらかと申せば内向的だったようですが、そうした側面も後に一教を立てる教祖としては必要であったのであろうと思えます。20歳の頃、宗忠は真の親孝行を求め、それを貫くことで、「生きて神となる」という志を立てます。生来、大言壮語するような性格では全くなかった宗忠が、実直に思いつめた果ての大層な志だったと思います。神とは何か、どうすれば神になれるかを求めて研鑽(けんさん)し、最初に得た悟りが「心に悪いと思うことを、決して行わないようにすれば神になれる」でした。

 悪いこととは、さぼりたい、うらやましい、恨めしいという邪(よこしま)な思い一切を指すものと理解しています。それらを行わないというのは、陽明学に基づくもので、思いと行動の両面を照らし合わせています。具体的には「信心をする家に生まれ信心をしないこと。自分が慢心をして人を見下すこと。人の悪いことを見て自分にも悪い心を持つこと。病気でないときに仕事を怠ること。誠実な人生を口では言いながら心に誠のないこと」を五カ条として掲げています。それに、「腹を立て物を苦にすること。日々(にちにち)有り難き事を取り外すこと」の二つを後に加えたのが、黒住教の訓誡(くんかい)七カ条です。私は子供の頃、この七カ条を唱えるたびに、「どうして黒住教では悪いことを教えるのか…」と思ったものです。訓誡の意味を知らない頃の笑い話ですが…。そうした修行を徹底して実践した宗忠は、人徳者として人々の尊敬を集めるようになります。

 一途(いちず)に両親に孝養を尽くす宗忠でしたが、33歳の時に、元気だった両親が流行(はやり)病にかかり、わずか一週間の内に相次いで亡くなってしまいます。宗忠は全てを失ったかのように悲しみに暮れ、泣き通して、終(つい)には、悲嘆のあまり、肺結核にかかってしまいます。宗忠は、孤独の中で陰鬱(いんうつ)になり、医者がさじを投げるような重篤な状態になりました。

 文化11年(1814)の正月(旧暦1月19日と伝えられています)、宗忠は今生の別れにと強く希望して日の出前から東の空に向かい、祈りを捧(ささ)げていました。黒住教の日拝は宗忠に始まりますが、その頃はまだ毎日、行っていたわけではありません。三社宮や今村宮にも日拝の伝統はなかったようです。ただ、宗忠は、太陽を「お天道(てんとう)様、お日様」と称(たた)えて毎朝柏手(かしわで)を打っていた日本人の伝統に即し、今生の別れを告げる思いで朝日に手を合わせていました。夫人が病気の身を大切にするようにと言っても、どうせ死ぬ身だからと、縁側から抱きかかえられるようにして、日の出を拝んだのでした。

 ところが、日の出の瞬間、この哀れな姿は亡き両親が最も嘆き悲しむもので、死を従容と受け入れている行為そのものが大変な親不孝であることに宗忠は気付いたのです。知らないうちに、そんな境遇に身を置いていたことに驚愕(きょうがく)し、後悔します。その強い悔悟の念により、宗忠は深い気付きを得ることになります。

 一息でも長く生きることが、亡き両親の心を安んじることだと気付いた宗忠は、生きる決意に向けて心を大反転させたのです。「天命直授(じきじゅ)」と呼ばれる大悟の境地に立った立教の時をクライマックスとすると、そこに至る内面の劇的な転換が、ここにあったと思います。それが、私たちが「第一次御日拝」と称える瞬間です。その時の心境を宗忠は、後に「有り難きことのみ思え人はただ きょうの尊き今の心の」と詠んでいます。落ち込んでしまう中にも、一筋の光を灯(とも)すような有り難いことにだけ目を向け、苦しみを乗り越えていこうという姿勢がうかがえます。

 宗忠は、「有り難う」の「有り難」をひっくり返して、「難有有難(なんありありがたし)」と四文字熟語のように書き、難があることさえも有り難く受け止めていく、歯を食いしばってでも有り難い方に目を向けていく姿勢を、自らの体験を通して教え示したのです。簡単なことではありませんが、教祖の説いた教えですから、私たちはたとえ苦難の中にあっても恨んだり憎んだりせず、また見て見ぬふりもせず、日の出を待つ思いで懸命に祈り、光の方向に歩みを続けていこうと心掛けるようにしています。また、難があっても有り難いのですから、難がないことがいかに有り難いかという、普段の有り難さに気付くきっかけにもしています。それが私たちの教えの根本を貫く基本姿勢になっています。

(つづく)