「立教二百年を迎えた黒住教について」(1)
(宗教新聞フォーラムでの講演報告)

平成26年8月号掲載

 去る7月2日、東京都内において「宗教新聞」という専門紙が主催する講演会が開かれ、「立教二百年を迎えた黒住教について」と題して講師をつとめました。今月号から数回に分けて、同紙に掲載された講演要旨を転載させていただきます。

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 西洋の近代国民国家をモデルに国づくりを始めた明治政府は、古来の神道を国民精神の基本としながら、政教分離の原則を守るため、神社神道は国民の習俗で宗教ではないとする一方で、江戸後期に発生した神道十三派を教派神道の宗教とした。その筆頭にある黒住教が今年、立教二百年を迎えるにあたり、黒住教の歴史と信仰について、黒住宗道副教主に語っていただいた。


黒住宗忠とその宗教

 黒住教の教祖・黒住宗忠は江戸時代後期の安永9年(1780)11月26日(旧暦)、備前岡山(今の岡山市)にある備前岡山藩の守護神社・今村宮の神職を務める社家・黒住宗繁の三男として生まれました。黒住家は南北朝時代までは南朝の武士で、高座で教えを説く宗忠を描いた絵がありますが、高座の下には刀掛けに掛けられた刀も描かれています。尊像として、普段は高座に座る宗忠の絵だけを用いますが、正式な肖像として紹介する場合には、刀掛けも入った絵を使っており、武士としての誇りも大切にしてきました。

 南北朝時代に先祖は武士から神職に身を転じ、今、岡山県庁がある辺りにあった三社宮の神職を数代にわたって務めていました。三社宮は天照皇太神宮と八幡大神宮、春日大明神を合わせ祀(まつ)る社でした。

 宗忠が今村宮の神職に在職中のエピソードに、若い神職仲間と宿泊先で就寝前に世間話をしていたとき、「ところで、貴殿奉仕の御社の御祭神は」と聞かれると、宗忠は即座に起き上がって着物を着替えて、謹んで御祭神の名を述べたという話が伝わっています。20年ほど前、広島県神社庁の青年神職の研修に講師として招かれたとき、挨拶(あいさつ)に立った副庁長が、「若い時に聞いた宗忠翁の逸話(いつわ)が今も忘れられない。神職たる者、このような心構えで務めるべきだと心に刻んだ」と語られ、私も身震いしたことがあります。

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場する宇喜多直家が天正年間(1573~92)に岡山城を築いた際、堀の内にあった三社宮が今村(今の岡山市北区今)に遷(うつ)されました。今村は平安時代に開かれた古い村で、当時その地には今村八幡宮があり、三社宮の御祭神の一つと同じだったことから合祀(ごうし)されることになりました。以後、社格が上がり今村宮と称するようになります。そこで、三社宮の社家の黒住家も今村に隣接する中野(今の岡山市北区上中野)に移り住んだのです。わが家は今も代々、今村宮の氏子です。中には今村宮の宮司を務めた人もいて、宮司と禰宜(ねぎ)を交代で務めるような間柄だったようです。後に宗忠が悟りを開き、今村宮の神職を離れる際も、対立するようなことはありませんでした。

 現在も年間を通じ黒住教の最大の行事が、4月に行われる「宗忠神社御神幸(ごしんこう)」ですが、嘉永3年(1850)に帰幽した宗忠を神として祀り、文久2年(1862)に京都の吉田山の南端に建立され、孝明天皇の勅願所(ちょくがんしょ)ともなったのが神楽岡・宗忠神社です。その後、生誕地にもとの声を受け、明治18年(1885)に建立されたのが大元・宗忠神社で、御神幸はその翌年に始まりました。今村宮からは約一キロで、二つの神社の神様同士を引き合わせようと考えた信者が始めた祭りで、1キロにわたる行列を設え、宗忠神社から今村宮への神幸祭が行われたのです。

 三社宮はもともと岡山城内にあった社なので、岡山市の商店街では今も春と秋の大祭の折には今村宮の幟(のぼり)を上げます。年配者は、その背景を知っていますが、若い人たちや買い物客は、離れた今村宮の幟があるわけを知らないようです。

 そうした城下町の人たちが、天下の名園として名高い後楽園(こうらくえん)を御旅所(おたびしょ)にしたいと願い、また岡山市中がそのご神徳のおかげを受けられるように、数年後から行列が後楽園を中心に市内を巡行するようになりました。戦前、戦中から戦後の27年(1952)まで途絶えていましたが、戦後復興を願い祈る祭事として復活し、平成12年(2000)からは岡山に春を告げる「岡山さくらカーニバル」(岡山商工会議所ほか主催)の中心的な祭りとして今に続いています。

(つづく)