富士登山の思い出
平成26年8月号掲載
この度、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録され、登山者であふれる山上の風景が報道されるのを見ながら、大学生時代の富士登山の思い出が懐かしく蘇(よみがえ)ってきましたので、紹介したいと思います。
母校である成蹊(せいけい)大学に在学中、私はキャンピング・ツアー・クラブという、“野営旅行クラブ”に所属して、週末や長期の休みに仲間たちと日本各地の山や海、岬や離島をテントを背負って歩き回りました。東京から船で沖縄に向けて出発して真夏の石垣島と西表(いりおもて)島の海岸で3週間自給自足の生活をしたり、上野発の夜行列車と青函(せいかん)連絡船で北海道に渡り厳冬のオホーツク海沿岸を走る国鉄(今は廃線)の無人駅を宿にしながら知床半島から宗谷岬を目指したり、南アルプスの山々の登山や北アルプス連峰の縦走など、まさに学生ならではの“サバイバル旅行”を満喫させていただきました。
そんな中で、私がリーダーになって企画した短期合宿(週末利用の小旅行)の一つが、「富士山の山開き初日のご来光を迎えよう!」というものでした。
クラブの幹部を務めていた大学3年の昭和59年(1984)の山開きの日である7月1日が日曜日だったので、前晩からの夜行登山で富士山五合目から頂上を目指すという計画を立てたのです。最近“弾丸登山”と呼ばれて未経験者には危険だと注意が促されていますが、当時そのような勧告はありませんでしたし、毎週のように山歩きをしている大学生にとって、富士山は数日かけて登る山ではありませんでした。
山開きの日、しかも週末、さらに「稀(まれ)に見る好天気…」という条件が揃(そろ)って、29年前の6月30日は、夕方から大勢の人々が五合目に集結していました。“弾丸”というなら、私たち男子大学生8人の足取りこそ、そう呼ばれても仕方のないものでした。腹ごしらえをして少し休んでから出発した私たちは、ゆっくり歩を進める登山者の列をどんどん追い抜いて、山頂近くの最後の山小屋まで一気に駆け上がりました。
時間配分をしなかったのは“若気のいたり”でしたが、予想以上に早く山小屋に到着した私たちは、東の空が白むまで仮眠を取ることにしたのです。
ふと気が付くと、さっきまでごった返していた山小屋は閑散としていて、慌てて小屋を飛び出して見上げると、頂上付近はすでに多くの登山者たちで占領されているようでした。「まるでウサギとカメだ…」と話したのを覚えていますが、幸いにしてまだ夜明け前だったので、行ける所まで行って、山頂一歩手前の開けた場所でお日の出を待つことにしました。
標高3300メートルから見晴(みはる)かす東の空は、刻一刻と表情を変え、その美しさは今も脳裏に焼き付いています。やがて、水平線を覆って横たわる雲を乗り越えるように一条の光が差し込んで来て、まさにご来光の瞬間を迎えました。
後輩たちがいるのを忘れて、思わず二拍手しかけたその刹那(せつな)、すぐ後ろから突然声を掛けられたのです。
「すみませんが、お兄さんたち、そこで万歳をしてもらえませんか…?」
せっかくの感動に水を差されたことに少し腹立たしく思いながら、責任者として「どちら様ですか?」と尋ねると、「朝日新聞の記者です」との回答。一瞬私が戸惑った時には、7人の後輩たちはすでに両手を挙げて被写体になる準備態勢に入っていました。
「お前ら、調子良すぎるんだから…」と、今でも笑って話す懐かしい思い出です。
『ご来光に「バンザイ」を叫ぶ登山者たち』の一文が付けられた写真は、翌日の全国紙の社会面に大きく掲載されました。私は、その日のうちに朝日新聞本社を訪ねて刻印の押された写真を入手して、私が彼らを前から撮った写真とともにプレゼントしたことです。
祈りの中に迎える神道山での感動的なお日の出とは比較できませんが、私にとって忘れられないお日の出の一(ひと)コマを、世界遺産に沸く富士山のニュースを見ながら思い出して、紹介させていただきました。