震災復興支援 タスクフォース座談会(下)
平成24年8月号掲載副教主様が評議委員を務められている公益財団法人世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会の機関誌「WCRP」に掲載された、根本昌廣氏(立正佼成会外務部長)、前島宗甫氏(元日本キリスト教協議会総幹事)、畠山友利氏(WCRP日本委員会事務局長)、そして副教主様による座談会の記事の中から、副教主様のご提言を前号に引き続いて転載させていただきます。 (編集部)
「今を生きるいのち」への連帯と 「これからのいのち」の責任について
東日本大震災の後、「想定外」「未曾有(みぞう)」という言葉を何度も耳にしました。ただ、地球規模で考えると、地殻の一部がわずか数メートル連続して跳ね上がった結果が地上に生きる私たちにとっての大惨事になってしまったわけで、人類はそれくらい地球の表層部分にしがみつくように生きてきた、そしてこれからも生きていくしかないいのちであることを、あらためて深く認識する必要があるのではないでしょうか。
また、今回の大惨事は、原子力発電所の事故が未曾有の事態を引き起こしてしまったわけですが、地震そのものは地球の長い歴史の中にあって、決して初めての規模ではなかったはずです。謹みというか畏(おそ) れというか…、大自然に対する畏怖(いふ)・畏敬(いけい)の念を、私たち現代人はあまりにも軽んじていたと言わざるを得ません。
私たち信仰者は、神や仏、また霊魂といった見えないものを信じるという、あえて申せば“大きな視点”を持っています。時間軸と空間軸、縦軸と横軸とも言えますが、人類が歩んできた長い歴史、そしてこれからも永遠に続く時間の流れの中で、私たちの世代から次の世代に託されていくいのちがあります。それは同時に、地球というかけがえのない場所に、これから先も共に生かされて生きるいのちです。先人たちが、自然や目に見えない存在の大きなはたらきの中で、畏れおののきながらも、いのちの尊さに歓喜・感謝して、さらに生き続けられることを願い祈ってきた歴史はどの世界にもありました。私たち神職にあっては、「掛巻(かけまく)も綾に畏(かしこ)き…」「言巻(いわまく)も畏けれど…」「謹み敬い畏み畏みも白(まお)す」と、八百萬(やおよろず)の神々に対する畏怖・畏敬の言葉が祈りの冒頭と締めくくりに必ず奏上されますが、そうした先人たちが重んじてきた古来の信心を忘すれ、短いものさしで、狭い視野で、過信した結果の衝撃だったのではないでしょうか。
今は、とにかく起こってしまった事実を皆で乗り越えて、これから長い時間をかけて、将来の経験・智ち慧えにしていかなければなりません。そうした使命を、とりわけ私たち宗教者は、負い持っていると思います。
「今、ここに生かされて生きている」という視点に立って、視野を広げて考えてみると、現代の諸問題に気付きます。本当に小さな気付きから「おかげさま」という感謝の種も目覚めてきますし、それが「お互いさま」であるということにも気が付きます。私たちは、その気付きを現代社会に生きる人々にもたらすきっかけになっていきたい、そういうものが発信できる宗教者、信仰者でありたいと思っています。
「今後のWCRPの復興支援の可能性」 「宗教者が果たすべき役割」について
普段であれば「神さま、仏さま」と言わないような人も、今回の震災では祈らずにはいられませんでした。その点では、日々祈りを捧(ささ)げ、その祈りの上に具体的に支え合い、寄り添い、支援を行う宗教者が、「祈らずにいられなかった」というその気持ちの大切さをメッセージとして発することが出来るのではないかと思います。一宗派、一教団というように単独で活動する場合には、狭い意味での布教としか捉えられずに誤解を与えてしまいがちですが、同じ志を持った複数の宗教者が共に祈る、また宗教者だけでなくボランティアの人々や、NGO/NPOの方々と一緒に祈ることで、人間にとって祈りがいかに尊く重要な行為であるかを分かち合えると思います。
一方で、宗教者によるボランティア活動と、信仰をベースにしていないボランティア団体やNGO/NPOの人たちとでは何が違うのかと問われることもあるかもしれません。個人的には、「違いなど、無いじゃないか」と指摘されても構わないと思っています。要は、救いを必要としている人に対して具体的に行動することが大切なので、それが信仰をベースにしていようとなかろうと、善意の行為を区別する必要はないと思っています。ただ、信仰する者として、宗教者として、周囲から何と言われようと、自分自身の行動の根底には祈りがあり、大いなるはたらきに対しての信仰があります。私自身の信条をあえて申せば、「祈りに基づいた行動と行動を伴った祈り」を大切にしたいと思っています。WCRPの復興支援タスクフォースというのは、そういう意味でも大きな使命を負っていると思います。 (了)