震災復興支援 タスクフォース座談会(上)
平成24年7月号掲載
副教主様が評議委員をお務めの公益財団法人世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会は、東日本大震災の復興支援を五年間にわたって行うために、タスクフォース(機動部班)を立ち上げ「WCRP震災復興キャンペーン2012」を今春実施しましたが、キャンペーンに先立ち、タスクフォースのメンバーである根本信博氏(立正佼成会外務部長)、前島宗甫氏(元日本キリスト教協議会総幹事)、畠山友利氏(WCRP日本委員会事務次長)、そして副教主様の四方による座談会を開催。キャンペーンの方針や大震災を通して考えたことについて話し合われ、その様子を機関誌「WCRP」の3・4・5月号に連載しました。
WCRP日本委員会のご好意により、本誌今号と次号の本項に、副教主様のご発言を転載させていただきます。
(編集部)
震災が発生した3月11日に感じたこと、今、1年経(た)って感じていること
震災当日、私は原宿の東郷記念館で教派神道連合会の会議に出席していました。突然、大きな揺れが連続して3回ほど起こりました。揺れが収まってから東郷神社の境内に出た時は、まだ大地が波打っていました。しばらくして携帯電話のテレビを見ると、津波が押し寄せて来るシーンで、愕然(がくぜん)としたのを憶(おぼ)えています。今でこそ冷静に振り返ることが出来ますが、その時はとにかくお祈りするしかないという思いでした。
その日は、世田谷区にある教会所まで歩いて帰って泊まりました。いわゆる“帰宅難民”を少しだけ経験しましたが、いま思い返してみると、サイレンの音もクラクションも全く聞こえない、とても静かな中でのおびただしい数の人と車の大移動でした。
夜中の大きな余震に眠れない夜を過ごして、翌朝、始発の新幹線で岡山に帰りました。3月12日は九州新幹線開通の記念すべき日だったとはいえ、時刻表通りの運行に驚きながらの乗車でした。昼前には本部に帰り、会議で震災直後の報告を行い、あらためて御神前で祈りを捧(ささ)げました。
教団的には、全国の教会所で奏上する祝詞(のりと)を作成して送り届けて、直ちに祈りと募金を始めました。
一方、岡山にはRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)という諸宗教の仲間がおりまして、その仲間たちと13日から街頭募金を行いました。最初の5日間は、岡山でも尋常ではない緊張感があり、緊迫した恐怖心の中で、驚くほどの募金が寄せられました。また、私たちのパートナーでもある国連認定医療NGOのAMDA(アムダ)が地震発生直後から被災地に入り、その第二次部隊として我々の仲間の若き僧侶が調整員として現地入りしたので、彼の読経に時刻を合わせて一緒に祈りを捧げました。
5日を過ぎた頃からは、恐怖の中にあっても少し落ち着きが見られる中で、街頭募金を行う難しさを感じるようになりました。“街頭集金”にならないように、例えば歩道の両脇に立たないとか、大きな声は出さないとか、少人数に分かれて立つとか、最大限の配慮をしましたが、被災地から遠く離れている私たちからすると、それは「諸宗教による街頭での祈り」そのものでした。「少なくとも1ヶ月は続けよう…」と、4月12日まで連日、皆で交代してつとめました。終わり頃はほとんど募財にはなっていませんでしたが、「被災地は、これからが大変です」と、道行く人たちや、信号待ちする人々に静かに声を掛け続けました。
西日本では実感を伴った揺れを知りませんし、放射能汚染の恐怖も正直なところ我(わ)が事になっていないように思います。あまりにも遠すぎて、被災地と綿密な連絡も取れません。個人の力には限界がありますが、そうした意味では、私たちのような宗教教団には教団組織というネットワークが元々あり、さらにその教団同士の連携であるWCRPのネットワークやRNN、また、AMDAなどの他のNGO/NPO団体とのネットワークを活用することもできます。
私たちのことを申し上げれば、AMDAの支援先に寄り添う思いで、“わがまま”を聞いてあげられる存在でありたいと思っています。お金や物を送るだけが救援ではもちろんありませんが、「こういうものがあれば助かるんだけど…」「ああ、それくらいのものだったら、買って送ってあげられるから…」というやりとりが出来るのは、信頼があればこそだと思います。当然、出来ないことは出来ないとはっきり言いますが、「遠く離れてはいるけれど“わがまま”を聞いてくれる人たちが岡山にいる…」と思ってもらえる存在でありたいと願っているのです。
「失われたいのち」の追悼と鎮魂について
亡くなられた方の御霊(みたま)の安寧と被災者の心身平癒、被災地復興、そして原発問題の解決と安全確保を祈らない日はありません。
昨年の4月29日、この日は3・11から49日、すなわち数えて50日でしたので、1ヶ月の間ともに街頭で祈りながら募金を呼びかけた諸宗教の仲間たちと、49日法要と50日祭にあたる慰霊行事を、黒住教本部・神道山の日拝所でつとめました。私たちが毎朝欠かさず日の出を拝んでいる日拝所は、東北から東南の方角に開けた高台の礼拝所で、諸宗教で慰霊を行う場所として最適ということになったのでした。この日は、宮城県石巻市で行われた金光教の方々らによる慰霊祭と時刻を合わせて祈りました。そして今年の3月11日、同様に1年の慰霊行事をつとめることになりました。
その計画中、「行動して初めて分かる思い込み」を反省させられたことがあります。当初、今年の3月11日には被災地でもきっと祈りが捧げられるはずだから、日ごろ支援している岩手県大槌町のグループと連携して、遠く離れている西日本の私たちも「被災地と心は一つ」というメッセージを発信しようと考えました。発想自体は間違ってなかったと思いますが、私たちの想像以上に被災した人々の当日への思いは深く重く、「その日は、特別に何も計画はせず、それぞれが静かに迎えたいので…」と、合同での慰霊行事の計画は丁重に辞退されました。
「(被災者の気持ちを)分かろうとしながら、全く分かっていない」と深く反省したことです。
ただ、常に追悼・鎮魂の祈りを捧げ、励まし支援し続けることは、被災者の皆さんの安心、まさに「心の安らぎ」になると信じています。失われたいのちへの追悼は、同時に残されたいのちへの応援メッセージでもあると思います。私たちは、“わがまま”を言ってもらえる、そんな心許せる存在であり続けたいという思いを込めて、これからも祈りを捧げて参ります。
(つづく)