逢えてよかった

平成22年9月号掲載

 宗教紙(新聞)の老舗(しにせ)「中外日報」(総本社・京都市)の「人生Journal(じゃーなる)」7月号に、「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の映画監督・龍村仁氏と副教主様の紙上対談が掲載されました。同映画の「第7番」のロードショーが7月から8月にかけて東京で行われ、好評を博しましたが、その公開を前にして行われたお二人の対談を、今号の本稿に転載させていただきます。(編集部)

 黒住教(岡山市)の黒住宗道副教主(48)と、ドキュメンタリー映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」の龍村仁監督(70)。二人の出会いは、黒住教がチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世を招聘(しょうへい)した、15年前の1995年にさかのぼる。連作「地球交響曲」の「第2番」(95年公開)にダライ・ラマを登場させた龍村監督は、招致委員会の中心メンバーだった。
 このたび完成した「第7番」は、「統合医療」を実践する米国の医師や日本の環境教育活動家ら3人が出演、地球や生物が備える自然治癒力の偉大さを話す。随所に、地球に「生かされている」自然観の象徴として神道の神事の映像が挿入され、作品のテーマを際立たせる。
 今月17日からの一般公開を前に、宗道副教主と龍村監督が日本文化の精神的風土や黒住教の太陽信仰について語り合った。(司会・佐藤孝雄)

   司会:第7番をご覧になった感想は。

黒住: まさに祈りの時の感覚のように、深いところで共感させていただきました。(出演者の)高野さんやワイルさんの「受け入れる柔らかさ」、レモンさんが瀕死(ひんし)の重傷を受け入れて克服したこと、そしてすべてを受け入れる神道。それぞれが魂に触れました。

龍村: 第7番のコンセプトは「全ての生命が潔く、健やかに生き続けるために」。この中で「潔い」という言葉がとても重要です。
 潔さとはベストを尽くせば尽くすほど、起こってくるどんな結果でも受け入れていこうということ。「受け身」というか。受け身と能動は正反対の概念のように思われているけれどそうじゃなくて、本来の積極性とか能動性というのは、結果が思惑通りにならなくても意味のあることととらえる。
 これを英語で言うと、grace。高貴なものと潔いということがつながっている。黒住教の聖地でなさっていることもそうだし、今回の映画に神事が出てくるのは実は連動しているんですよ。
 ダライ・ラマ法王に感じたのも潔さ。ワイルさんも高野さんも、敵対するものを受け入れる柔らかさが本当は大きな変革をもたらすと言っている。敵対してやっつけるのが変わるために重要なように思われるけれど、実は受け入れることによって変化するんだっていうのが、日本の精神文化の背景にあると思う。
 西洋人から見ると、クリスマスはキリスト教なのにお正月は神道だったり、平気で矛盾を実行しているようなことが、21世紀の人類にとって重要な生き方になる。日本人が無意識に持っている曖昧(あいまい)さというか、受け入れながら変革する感覚。それをきちんと伝えていくのが日本の宗教人の役目だと思います。

黒住: 潔さに近い感覚が「すがすがしさ」とか「清新さ」でしょうか。「朝の気配」というか。
 大陸から、南から北からやってきた文化が日本に行き着いて、先人や先輩方が本当にたおやかにしなやかに受け止めてきたのでしょうね。

龍村: 日本人は遺伝子的に単一民族だとみんな言ってるけど絶対そんなことはない。日本列島の地球上のポジションと関係していますが、五千年前「縄文海進」といって今より海の水位が5、6㍍も高い時代があった。その前の氷河期に陸続きで北方系の人たちがたどり着いた。狩猟採集の人たちでアニミズム的なもの木や岩や風、森とか山に全部神様が宿っているという感覚があった。
 海進の時代になると、海流に乗って南方系の人がやってくる。そして海が引き始めて平地に淡水の湿地帯がたくさんでき、稲作文明を持った人が続いて入ってきた。稲作文明と海・森の狩猟採集文明の三つが重層化して、最初は遺伝子的にも多少違ってた人たちが一緒になって生きることになった。
 こういう歴史の中で無意識に、敵対したり価値観の違うものを排斥して自分が生き残るっていう西洋的な世界観じゃない、共に生きるっていう世界観が生まれて、日本文化の精神的なバックグラウンドになっている。

黒住: 気候風土もちょうどいい温暖なところ。太陽信仰でも恐怖ではなくて母親を見るような感じで、すべてに神様が宿っているというふうにどっちを向いても「お陰様」と言える。

龍村: 南東アラスカや南太平洋、砂漠などのそれぞれの先住民はみんな素晴らしい才能と智慧(ちえ)を持って生きている。ちょっとだけ日本文化が違うのは、余分なものをそぎ落としながらだんだん、ソフィスティケート(洗練)された点。だから美しいんですよ、日本の風景にしても神事にしても。
 魂として人類がガイア(地球)との関係において生かしていただいているという考えはずっとありながら、それを思い出すための儀式がすごくソフィスティケートされている。一言で言うときれい。

黒住: それも祓いかもしれませんね。無駄を取っていってデコラティブ(装飾的)じゃないですよね、神道は。

龍村: 神様が向こうから圧倒的にどーんと来るわけじゃなくて、すっと開いて、すっと通ってごらんなさいという感じでしょう。こっちからおいでよっていう感じが、建物の造りにしても神事の形にしてもありますね。

司会:ワイルさんの言う「自発的治癒力」。黒住宗忠教祖が父母への孝養を尽くそうと修行する中、両親を亡くし、自らも不治の病・結核にかかる。それが日の出を拝んだところ、奇跡的に完治した。その事績と自発的治癒力は非常にリンクします。

黒住: 医者もさじを投げるような状況で、教祖は最期、今生の別れに日の出を拝むわけです。お日様の誕生の時ですよね、日の出の時というのは。生命誕生の時であり、気を感じ、生命の力を感じる。
 親が一週間のうちに相次いで亡くなったという悲しみで気を病んで、生きる気力もなく、女房、子どもがいるにもかかわらず、この哀れな姿は一番の親不孝だ、亡き両親は大変な親不孝を嘆いている、ということに教祖は気付いた。
 少しでも生き長らえてこの悲しみを克服することが、亡き両親を心安んじさせることにほかならないと、心の反転がそこで生まれて、後に詠む歌ですが「有り難きことのみ思え人はただ今日のとうとき今の心の」と。
 元々の神道の伝統の上に教祖の体験からくる徹底感謝、何があってもありがたいと思う姿勢や徹底楽天主義は、そこから生まれました。

司会:「徹底感謝」と自発的治癒力は関係がありそうですね。

龍村: 例えば第4番に出ている名嘉睦稔(沖縄の版画家)の親友は、毎朝お日様を拝んだら本当にがんが消えた。朝日が昇る時の光のエネルギーと、それをありがとうという思いで受けていく心の状態の両方が一緒になって、自発的治癒力が活性化する例はたくさんある。
 朝日は大気圏を一番長く通ってくる。レモンが言っていたように、それを生命体が受けるとセロトニン(人の精神活動に影響するとされる体内物質)が活性化していくことが現実にある。
 同時に心の問題があり、ワイルが指摘していたのは「ありがたい、美しい、すてきだ、気持いいな」って言って受けていくかどうかで全然違う。心のありようで自発的治癒力が活性化するかが決まる。ほかの生き物や植物はみんな素直だからごく自然に受けていて、それでも命が持たないなら潔くすっと去っていく。
 人間だけが自我とか欲望によって閉じているから、逆に心の問題が重要になってくる。感謝の思いが伴った時に自発的治癒力が活性化することがあり、それを端から見ると奇跡が起こった、急にがんが消えたとかいうふうになるんでしょうね。