岡山の宗教 ー神道概説を中心にー②
平成21年2月号掲載
内憂外患の徳川幕府の弱体化が露呈し始めた江戸時代末期、備前岡山藩も荒波の中にあったようです。かつて私は、岡山大学元学長で岡山教育界の重鎮であられた谷口澄夫先生に、黒住教教祖在世当時の岡山の社会状況を尋ねたことがあります。そのとき、政治的な不安定要素もさることながら、当時は異常気象が続き、実り豊かな備前・備中でも米の収穫は非常に厳しく、とりわけ県北では東北の冷害時と変わらないような惨状が続いていたと教えられました。「幕末の様々(さまざま)な不安・混乱の状況下で、新たな価値観による身近な救いを求める民衆の悲願の現れともいえる信仰的熱意に応(こた)えたのが、後に教派神道と呼ばれるものであり、岡山に黒住教と金光教が誕生していることは『宗教県岡山』といわれる大きな理由の一つ」という柴田先生の言葉を紹介して、まずは岡山の宗教の概観といたします。
次に、岡山の宗教の具体的事例として、黒住教についてお話ししたいと思います。
江戸時代後期の安永9年(1780)に、黒住教教祖・黒住宗忠が誕生しています。私からいうと七代前、すなわち曾(そう)祖父の曾祖父に当たります。宗忠が数えて35歳の文化11年(1814)に、いわゆる悟りの境地に立って黒住教は立教の時を迎えますが、奇しくもその年に金光教教祖がこの世に生を受けておられます。
黒住家の先祖は、かつて南北朝の頃に刀を置いた武士で、やがて神職に転じ、後に「三社宮(さんしゃぐう)」と呼ばれる神社の神主になり、以来代々つとめていました。この三社宮は、現在の岡山県立図書館の辺りに長きにわたり鎮座していましたが、宇喜多直家の時代に、今の岡山城の原型が築かれるとともに堀の拡張工事がなされるに及んで移転の運びとなり、御祭神が共通する現在の今村宮に合わせ祀(まつ)られることになりました。神社統合の“はしり”だったのかもしれません。その際に、御祭神のお供(とも)をして今村宮に奉職したのが黒住家の先祖です。もっと近い所に神社が他にあるにもかかわらず、岡山市中心部の表町商店街の氏神様が今も離れた地の今村宮である理由が、実はそこにあるのです。関連して申し上げますと、岡山に春を告げる祭りとして知られる宗忠神社の御神幸(ごしんこう)という行事がありますが、もともとは宗忠神社が明治18年(1885)に建立された翌19年に、今村宮の神様と宗忠神をお引き合わせしようということで始まりました。何回目かの御神幸の際に、今村宮で迎えて下さった岡山市中在住の氏子の方々から、天下の名園である後楽園を御旅所(おたびしょ)として御神幸を行って、より多くの方々が宗忠神の御徳を受けられるようにしてもらいたいと申し出られて、その願いに応えて市中を巡る現在の姿になりました。
黒住教が立教なって、宗忠は人々から生ける神として尊崇され、多忙になったことから、長男の宗信に今村宮の神職を譲って、いわば教祖としての役に専念することになりました。
宗忠在世中の逸話(いつわ)や教えはいろいろありますが、伊勢神宮に関する話を紹介したいと思います。当時、全国的に「伊勢まいり」が盛んでしたが、それでも一生の内に一度参宮できるかどうかという時代に、宗忠は生涯に6度も神宮に参拝しています。遥(はる)か備前の国から往復1カ月を要して何度も参宮するものですから、あるとき神職から「何か特別の願い事があって祈っているのですか」と尋ねられたことがありました。このとき宗忠は、「わが祈りただ一つ、わが願いただ一つ。謹(つつし)みて天照大御神の御開運を祈り奉(たてまつ)る」と返答したといいます。宗忠の悟りを一言で申し上げますと、昇る朝日を通して万物の親神である天照大御神の真実体を確信したことでした。
「人は日止(とど)まるの義。日と倶(とも)にあるの義」と説き、「人は皆、天照大御神の分心をいただく神の子」という人間観を明らかにした宗忠は、毎朝天照大御神に見(まみ)える思いで日の出を拝み、恋焦がれるような思いで、天照大御神の鎮まる伊勢神宮に参ったようです。「神風や伊勢とこことは隔つれど心は宮の内にこそあれ」と詠(よ)んでおりますように、日頃から伊勢への思いは格別なものでした。
現在、私たちは平成25年に執り行われる伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮への奉賛に教団を挙げて取り組んでいますが、日本人の総氏神である神宮の式年遷宮の意味を広く人々にお伝えし、一人でも多くの方々とともに奉賛することは宗忠の望むところでもあると確信してつとめています。
式年遷宮については最後にお話ししますが、その前に教派神道について、そして神道のあらましについて触れておきたいと思います。
神道山の黒住教本部には、明治の元勲三條實美(さねとみ)公の「宗忠神を信仰奉る」という誓文をはじめ、関白二條斉敬(なりゆき)公による墨跡や関白九條尚忠(ひさただ)公が大書した「宗忠大明神」の神号、また少し時代は下りますが東郷平八郎元帥による墨痕(ぼっこん)鮮やかな「宗忠神社」と書かれた軸等が遺されています。なぜこのような幕末から明治期の重鎮の遺墨があるかと申しますと、宗忠の昇天後、維新前夜の混迷の時代に、宗忠の説いた天照大御神への信仰が京の都で公家方を中心に熱心に受け入れられたからでした。
明治の世になり、欧米社会におけるキリスト教に匹敵する日本人の精神的支柱を、天皇を中心とする神道に求めて、新政府による神道国教化政策が展開されるのですが、宗忠の孫である黒住教第三代の宗篤(むねあつ)が、「いくら公(おおやけ)・国といえども、人の信仰心までも強要するのはいかがなものか」と訴え、いわゆる国家神道成立の流れの中にあって信仰の独自性を強く求めました。維新前夜の公家方による信仰があり、さらには孝明天皇の尊信までも得ていた宗忠の教えなればこそ、結果的に願いが認められて、明治9年(1876)に前例なき許可を得て神道黒住講社として別派独立が認可されたのです。何事も前例ができると道が開けるようで、次々と神道系の宗教教団が誕生し、それらは教派神道十三派と呼ばれるようになりました。【つづく】
