姿なき心一つを養うは
かしこき人の修行なるらん(御文一四九号)
この御歌は天保十三年(一八四二)、教祖神御歳六十三の時に認められたお手紙(御文一四九号)の中で詠じられたものです。
御歌の前文には、「一、道はかねて申し上げています通り、ただ一つに極りますので、少しも少しも難しいことはありません。無の中から出た身ですから、心の元は皆、無いところからまいりますので、常々その無いところを養うことこそ、天照大御神の御玉(ご分心)を養うことになります。ここがつとまりますと、死するものはありません。この養うことよりほかに、大事なことはありません。幾重も幾重も大事にいたしたいものは、姿の無い心です」と仰って、この御神詠を詠まれています。そして「ここのところを常にご修行なさって下さい」と、ご教示になっています。
姿なき心を養う(無を養う)ことが、大御神様からいただいたご分心(わけみたま)を養うことであると道破されています。本来、無であるはずのわが心が、欲望や執着のために曇り、ひずみができ、濁りができ、ご分心のおはたらき(ご神徳)が存分にいただけなくなってしまうのです。
お日の出に顕れる大御神様が森羅万象の大元で、そのご神徳は天地に満ち渡り、すべての生命を生かし育む限りない御恵みです。前述の通り、私たち人間は心の奥深くに、大御神様のご分心をいただく尊い神の子で、そのご存在を自覚できるように、感激・感動そして感謝の心を培い、世のため人のために誠を尽くすことが真のお道信仰といえます。その誠の本体こそ、大御神様の大御心なのです。
神道山の正参道の入り口にある注連鳥居(二本の石柱)には、三代宗篤様の隷書体で「養無一誠生々大道」「神人不二名教洪宝」と刻まれています。「形は無いが確かにある人間の本体であるご分心を養うという誠ひとすじに生きることが、大御神様の全てのものを生かし育まれる大道にかなった生き方です。それは本来、大御神と、そのご分心をいただいている人とは二つならざる存在で、人は大御神様に生かされて生きて神人一体になるという、まことに尊く有り難い教えです。これは、私たちの大きな宝です」という意味ですが、まさに〝かしこき人の修行〟がここに示されています。