わが国の信心のこころをよめる
有り難きまた面白き嬉しきと
みきをそのうぞ誠なりけれ(御歌三七号)
教祖神をお招きしての美作(岡山県北部)の某家におけるお講席が今まさに始まろうとした時、そのお宅の夫人が「御神前にお供えしている御神酒は、昨晩主人が飲み残したお酒です。誤ってお供えしましたので、すぐにお酒を買ってきますから、しばらくお待ち下さい」と気まずそうに言い出しました。すると、教祖神は「それでは、そのおみきは私がそなえましょう」と言って詠まれたのが、今月の御教えの御歌です。
まことにユーモラスな御逸話ですが、有り難き・面白き・嬉しきの三つの「き」を「神酒」と「三喜」「三気」にかけて、さらに「そのう(そなえる)」を「供える」と「備える」にかけて詠じられています。まさに、お洒落で含蓄に富んでいます。御神前にお供えするとともに、自らの心に〝みき(三喜・三気)の心(誠心)〟を備え持つことが大事で、それが「わが国の信心のこころ」だと、はしがきのところにてご教示下さっています。御教語に「信心とは、信ずる心─信す心─信の心」とありますように、信心こそ誠心といえます。
また、天照大御神の有り難いご神徳の中に、面白く嬉しく生かされている私たちですので、「有り難き」の後に「また」とありますように、まずは〝感謝〟があってこそ、面白き・嬉しきという〝感動・歓喜〟の陽気な心が生まれてくるという深意が込められていると伺います。
有り難きは、大御神様またご先祖様によって生かされて生きていることへの感謝です。面白きは、与えられている今日只今を十全に生き切るときに生まれる感動で、嬉しきは、人や物に対するその折々の最善の触れ合いによって得られる歓喜・感激といえます。この御歌に照らし合わせてわが心を省みて、「感謝、感動、歓喜」の心を培ってまいりましょう。
なお、短歌の決まりごとには前句の止めに「……ぞ」とした場合、後句の結びは連体形の「ける」でなければならないという「係り結びの法則」がありますが、それを踏まえた上での「破格」という形式もあります。御文一六七号にもこの御歌が認められていて、その前に「先月も、ふと」と記されていますので、天言として浮かばれた御神詠と拝察します。何事にもとらわれない〝天言〟を重んじられた教祖神ならばこそ、といえましょう。