日々家内心得の事
一、己が慢心にて人を見下す事
恐るべし 恐るべし(御七カ条第三条)
「慢心」とはおごり高ぶる心で、「自分は他の人と隔絶した高いところにあり、質が違うのだ」と思うことです。教祖神の御言葉で、日々の生活に実践すべき御教えを星島良平高弟がまとめられた「三十カ条」の中に「慢心を去れ」との一条もあります。
自信と慢心は似ていますが、それは全く違う心です。自信には謙虚な心が伴いますが、慢心にはありません。教祖神の御歌と伝わる一つに「慢心は道をつとむるいとまごい(別れを告げること)心しずめて道をこそふめ」があり、慢心をご警告になっています。
教祖神の一座のお説教を拝聴して開眼のおかげを受けた熱血漢で、ややもすると慢心しがちな赤木忠春高弟に「慢心はこわい、命を取りますぞ」と教祖神は注意され、何事にも控え目な時尾宗道高弟には「慢心の戸ぎわ(戸のすぐそば)まで行かぬと、生きた大きな仕事はできませんぞ」とご教示になったという、慢心についての対機説法の御逸話が伝えられています。
また、教祖神は「人から慢心させられぬように」と赤木高弟にお諭しなった御逸話があります。断じて慢心はせぬと深く覚悟し、決して慢心はしないと思っていても、他の人々から「先生、先生」と持ち上げられて、知らず知らずいつの間にか、エライものにされ、高いところへ持ち上げられることがあります。他人の善意からの感謝や尊敬から、命取りとなる慢心の境地にせり上げられることを警戒しなければなりません。しかし、赤木高弟は図らずも慢心して再び失明してしまいました。高弟はすぐに「我あやまてり」と悔悟してまた開眼のおかげを受けましたが、教祖神のそのご忠言を思い出し猛省されたのです。
一方で、教祖神は「無学慢心」という言葉で、諦めや向上心の無い停滞心への戒めも説かれました。人は万事順調に事が運ぶと、知らず知らずに心が高ぶり、慢心して進歩が止まり、むしろ退歩が始まります。決して人を見下すことなく、謙虚な気持ちで事に当たり、反省していくことが大事です。
自信・確信の安心立命と、過信して慢心することは紙一重です。教祖神のご謙徳に倣い、常に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の姿でありたいものです。