あらうれし
かかるうれしき世にいでて
苦しむ人ぞあわれなりける(御文一六六号)
「おかげにて、面白く日夜を送りおり申し候。今の様子にては、先はいかように相なり候や相知れ申さず候。恐れながらお喜び下させらるべく候。いつも申し上げ候通り、道と申すものは、まことに安きものなり。ただ、私の知恵を離れ、有り難きのみに日を送り候えば、年も寄らず、つかれもいでず、嬉しきと面白きのみなり。時に一首
あらうれしかかるうれしき世にいでて
苦しむ人ぞあわれなりける
何事も、嬉しき嬉しきにて世を渡り候えば、嬉しきことばかり、自然ときたり申すべく候」(御文一六六号)
「おかげで、面白く日夜を送っています。今の様子では、この先どうなるか分かりません。恐れながらお喜び下さい。いつも申し上げていますように、お道は、まことに簡単なものです。ただ、自分自身の知恵を離れ、『有り難き』心だけで一日を過ごしますと、年も寄らず、疲れも出ず、『嬉しき』と『面白き』だけです。時に一首
ああ嬉しい。こんなにも嬉しい世の中に生まれてきて
苦しむ人はお気の毒です
何事も、嬉しい嬉しいで世をわたりますと、嬉しいことばかり、自然にやってくるはずです」といった意味です。
自分を中心に考えて、あれは好ましく有り難いことだとか、逆にこれは困ったことだと心を痛めるように、事に当たって一喜一憂するのではなく、何事も皆、天照大御神の御計らいとして有り難く感謝して日を送ることが、お道信仰であり、「生き通し」に通じる生き方といえます。ですから、年も寄らず、疲れも出ず、ますます嬉しく面白くなるばかりとなってくると、教祖神はご教示下さっています。
この御文は、岡山藩士百二十石で、教祖神より二十七歳年若の一森彦六郎氏に宛てられたお手紙ですが、短いご文章の中に、「面白」が二度、「喜び」が一度、「有り難き」が一度、「嬉し」が六度も認められています。まさに「わが国の信心のこころをよめる」とはしがきされた御歌三七号の
有り難きまた面白き嬉しきと
みき(三喜)をその(供・備)うぞ誠なりけれ
と相通じる今月の御教えです。