誠から祈れば神はあらたなり
神の心で神を祈れば(伝御神詠)
これまで本欄でも度々紹介してきていますように、「まること」とは、平和・円満・完全・おおらかさといった意味とともに、万物の親神である天照大御神のご神徳をそのままに表されたものです。そして、教祖神は「まること」の「る」の文字が約まって「まこと(誠)」となったと説き、大御神様の御心は人にあっては「誠」であるとご教示下さっています。
その「まること」=「誠」を世のため人のために尽くすことがお互いの「ご分心(大御神様のわけみたま)」を養う道であり、そうすることで万物を生かし育んで下さる「大御神様」=「ご分心」のおはたらき(ご神徳)を得て〝開運の道〟を歩むことができるのです。
人は〝天照大御神のご分心をいただく神の子〟で、そのご分心こそ誠なのです。その誠が大御神様の御心ですので、大御神様と私たちはご分心を通じて直結しています。ですから、大御神様に「誠からの祈り」=「神の心(ご分心)からの祈り」が通じないはずはないという確信から、この御歌を詠じられたものと拝察します。
「まことの祈りには、かなわぬことは無きものと申すこと、心に覚え有りながら、祈る心にならぬこと、はなはだかなしく候。祈りは日乗りにござ候由、本体の祈りにて、かなわぬことは無きことなり」(御文四四号)と、教祖神は御教え下さっています。思惑や身勝手なことを祈るのではなく、誠の祈りにはかなわぬことはないと断言されています。「祈りは日乗り」とは、日の神(大御神様)と一体になっての祈りです。
今号の御歌が、まさにそこのところをお示し下さっています。我執・我欲の祈りではなく、大御神様の御心(誠)になって祈れば、霊験はあらたかで、かなわないことはないと仰っています。
教祖神がおつとめになったように、病み悩み苦しむ人のために〝祈りと奉仕の誠〟を尽くすことが、ご分心をいただく神の子にふさわしい行いとなります。そして、ご分心への何よりのお供えとなるのです。ただし、誠から、すなわち神の心から祈らなければ成就しないともいえます。心して、誠ごころを養ってまいりましょう。