親にも不自由させず、自分にも
          不自由なき孝行をせよ。
真の孝行の徳なら、その位の
          おあてがいはある筈なり。(御教語)

 親の言うことは〝絶対〟で、子供は〝親のため〟ならわが物、いや命すら惜しまない姿が親孝行の鏡であるかのようにいわれた時代が、かつてありました。

 〝超高齢化〟に伴い、介護問題が叫ばれるようになって久しくなりますが、昔のように子供が自分の生活を犠牲にしても親の面倒を見るといったことは少なくなってきました。その理由として、東京をはじめとする都市圏に親元を離れて暮らす人が増え、そうした方々もすでに高齢となり、さらに次の世代、またその次の世代も別々に居を構えて暮らす時代となったことがあります。いわゆる〝個化〟の進展により、家族だけで介護に当たることができなくなったのです。

 一方、親の方でも子供に面倒を掛けることを避ける人が大半を占めるようになり、〝老老介護〟が問題視される昨今です。そこには、ただ形の上だけではなく心まで離れて暮らす、親子関係の希薄化も伴い、終(つい)には葬儀すら面倒なことだとする風潮まで高まってきています。

 奇(く)しくも今年と同じ年回り(戊戌(つちのえいぬ))の天保9年(1838)の教書所収の御年譜に「五月朔日(ついたち)、河上市之丞((いちのじょう)忠晶)書を奉りて孝の道を聞く」とあります。その内容は、「自分は親孝行を十二分につとめたいと思います。昔から孝子伝に出てくる親孝行の多くは貧乏の中で子供が犠牲になっても親に孝行することが称賛されていますが、これらは間違いのように思います。子供を犠牲にして喜ぶ親はありません。自分は、親にも喜ばれ、子供も喜べるような親孝行がしたいと思いますが、いかがでしょうか」といったものでした。教祖神のご返書は現存していませんが、今月の御(み)教えこそ、そのご回答といえましょう。

 この御教語の中にある「おあてがい」とは、天(天照大御神)から与えられるものということです。親に十分に喜んでもらえる孝行、いわゆる〝敬神崇祖((けいしんすうそ)神を敬い、先祖を崇める)〟の実践につとめるならば、ご神徳に満ち溢(あふ)れるこの世ですので、親子共々に満足できるものが必ずいただけます。そのためにも、この世で一番身近な〝家族の繫(つな)がり〟を結び直していきたいものです。