ことしより三つ子となるもありがたし
          赤子となればなおありがたきかな(御歌一一一号)

 ある年の始めに、還暦を迎えた一人の門人が「ことしより三つ子になりて天つちのめぐみにそだつ神のふところ」と詠んで宗忠神にお見せしたところ、その場で返歌されたのが冒頭の御(み)歌です。「丸任せにせよ」、「あほうになれ」等の御言葉に代表される「離我任天(りがにんてん、我を離れて天に任せる)」の御教えは、「赤子」になるための修行と心得させていただくものです。

 ある日、上方(かみがた)から有名な人相見が岡山を訪れた時に、宗忠神も鑑定をお受けになったことがありました。

 詳しく人相を見た後、しばらく何も話さないので、宗忠神が「いかがですか…?」と尋ねられると、「どうも、申し上げかねますので…」と当惑する人相見でした。「どうか遠慮なく」と促されてやっと口にしたのが、「どうも、あなた様の御相は、私どもの観相の理論から申しますと、大変失礼かと存じますが、全く“あほう”の相でございまして…」との回答でした。宗忠神は満面の笑顔で「そうですか…。それは有り難うございます!実は、多年“あほう”になる修行をしておりましたもので、あなたの確かな観相の上にそれが現れたのでしたら、長年の念願がここに成就した思いです。この上の喜びはありません」と仰(おっ)しゃったのでした。

 楽天と任天に徹しておられた、とても凡人には真似(まね)のできないような“宗忠神話”は、他にも幾つか伝えられています。「いつもニコニコ笑ってばかりの先生様が、腹を立てることは本当にないのだろうか…」と、つい出来心で宗忠神の片方の眉毛を剃(そ)り落してしまったという「床屋のいたずら」や、そのお口から何とか苦言や文句の一言でも引き出そうと企んだ駕籠(かご)かきの二人が、宗忠神の乗られた駕籠を前後反対にして峠を駆け上り駆け下りした「駕籠かきのいたずら」等々。

 実際のところ、どこまでが事実に基づいた話なのかは知る由もありませんが、「普通だったらあり得ないけれど、宗忠神だったら十分あり得る話」として次々に語り継がれるほど、いつもニコニコ顔で全てを任せ切って、その大切を自らの自然体の御姿で人々に示して下さった宗忠神でした。