三度まで生き返りたる人はまた
唐天竺とわが朝になし(雑御文三号)
今月の御教えは、「黒住教教書」の『雑集の部三号』に記された福田主(備前藩士福田丑之介氏)が、教祖宗忠神の手厚い直禁厭(直接の祈り込み)によって霊験あらたかな「日の御蔭」を受けて三度目の死の淵から蘇生した際に詠まれた御神詠です。このことを、宗忠神は文政12年(1829)2月13日に認めた石尾乾介高弟へのお手紙(御文77号)の中で次のように書かれています。
「福田氏は先月20日の夕方にはまことに臨終に至り、一家一門寄り集まって(死を)待っているというところに、非常に苦しんでいる様子なので、もう一度来てくれますようにとの頼みによって行き、その時、私、心に思うに、この道がもし 天照大御神の御心にかないましたなら、ただ今ここで祈り返し(祈って本の状態に戻し)末代(後世)までの道の印(天照大御神の大道を証明するもの)と存じました。八百万の神に強く祈りましたところ、不思議なものです。祈念の後で手を少し腹中へ当てましたら、その苦しみ、すぐその場で熱も冷め、まことに夢が覚めたようになり、その場にいた人々まことにあきれ私もまことに(切り抜き)と申すか、何ともかとも申しようがなく、それから日々によくなっております。(後略)」(「黒住教教書現代語訳」山田敏雄監訳)
宗忠神が後世のために特に書き遺された『雑集の部三号』は、実は翌年の文政13年(1830)に福田主が4度目の奇跡的なおかげを受けた後の御文なのですが、今月の御教えに続いて次のように記しておられます。
「また、ことし秋の末より、先の年のごとく打ちふし給い、日にまし重(重くな)り給い、いたわしさ見るに忍びず。時に、天照大御神(の御心)と主の心と、一つに成り給えば生き通しなりと申しさとせば、ありがたしと、受けひき給うやいなや、その病苦を忘れ給い、それより、一日二日と、日をふるまま、快くなり給う。ありがたさにかくぞはべる。
天照らす神の御心人ごころ
ひとつになれば生き通しなり
時に
文政13年庚寅霜月下旬 藤原宗忠」
「教祖神の御逸話」を著された河本一止先生は、3度の蘇生でも唐(中国)、天竺(インド)、わが朝(日本)になしと詠まれた御心を受けて、「四たびまで生きかえりたる人はまだ広き世界のいずくにもなし」と詠んでおられます。