ありがたや我日の本に生まれ来て
         その日の本を知ると思えば(御歌四九号)

「この左京を師と慕う者を見殺しにはせぬ」と題された尊い御逸話があります。

 備中玉島町(現倉敷市玉島)の篤信家(信仰熱心な人)中野屋庄兵衛氏が命限りの身になり、「途中で死んでもいいから、黒住大先生の下に連れて行ってほしい…」と懇願し、7里余(約30㎞)の道を進む駕籠の中で事切れたにもかかわらず、「それほどまでに望んでいたのなら、連れておいでなさい!」との教祖宗忠神の力強いお言葉をいただいて、息絶えた庄兵衛氏が御宅に運び込まれたことがありました。

庄兵衛氏の亡骸を御神前の間に横たわらせて、宗忠神は、その場に居合わせていた神官として同僚の松岡清見大人※に直禁厭(直接の祈り込み)をするように指示して、ご自身は御神前で朗々とお祓いを上げて御祈念をつとめられました。

 言われるままに直禁厭を行っても、触れると冷たい遺体がおかげを受けるとはとても思えず、松岡大人は不安に駆られますが、リンリンと響き渡る宗忠神のお祓いの声に励まされていつの間にか一心不乱に祈り込んでいた時、何本目かのお祓いが終わった瞬間、なんと死人が生き返ったのでした。

 その後で、宗忠神がしみじみとお話になりました。「松岡さん、ご神徳は有り難いものです。ここは日の本、神国です。ご覧の通り死人が生き返りました。孔子は中国第一の聖人で、何千年来にない大聖人といわれますが、3000人もいた弟子の中でも十哲と称えられた最も優れた10人の高弟の一人であった冉伯牛が重態に陥った時、
『これを亡わん。命なるかな。この人にしてこの疾あり』
と嘆いただけだったそうです。これほど徳のある人が死ぬとは余儀なき天命であろうと嘆いただけで、どうすることもできなかったのです。聖人孔子と比べることはできませんが、私が御祈念をして、すでに事切れた死人が蘇る!まことに不思議なことですが、これは私の力ではありません。生々発展の日の本の有り難さ、生かし通しのご神徳の有り難さです。直禁厭は、その有り難い日の御徳を取り次ぐのです。『お取り次ぎ』するのです。必ずおかげがあるはずなのです。いやしくも、この左京を師と慕う者を決して見殺しにはいたしません!」

 日の本の日の御徳の有り難さ、日の御徳の「お取り次ぎ」の有り難さ、そして今も確かにお導き下さる教祖宗忠神の有り難さを知って、有り難うに有り難うに生きてまいりましょう。

※大人-先生の意