天地の誠の道の礎に
立てる柱は動かざりけり(大元・宗忠神社立柱式の時、三代宗篤様)
平成27年8月号掲載
先月に続いて、三代様(第三世黒住宗篤様)がお詠み下さった御歌を学ばせていただきます。
“祭り年”の締め括りとして、今年10月10日(土)、11日(日)、12日(祝)に「ご鎮座百三十年記念祝祭」が斎行される大元・宗忠神社が、いままさに建立されつつある最中、いよいよ御本殿の御宮柱が打ち立てられて立柱式が執り行われた明治14年(1881)冬至に、三代様が詠まれた“祈りの賛歌”が今月の御教えです。
大元の地は決して地盤の強固な場所ではなかったので、実は地上に使用されている木材のほぼ2倍の石数の黒松の丸柱が地中に深く打ち込まれています。精緻を極め美しく堅牢に積み上げられた石垣とともに、その礎は実に当時の先輩方の道の誠の結集で、昭和21年(1946)に岡山地方も甚大な被害を受けた南海大地震に際して、御本殿も拝殿もびくともしなかった事実が、その盤石さを物語っています。
各地方の深山幽谷から切り出された大量のご用材が、筏に組まれて河を下り海を渡り、そして曳き車に載せられて備前の大元まで運び込まれました。多大な労力を要したご用材の運搬に際して、多くの奇跡や美談が伝えられていますが、中でもよく知られている逸事があります。
四国山地から切り出されたご用材で組まれ、「備前宗忠神社御用材 大元行」と記した木札の掲げられた無人の筏が、吉野川を下り瀬戸内海を渡って岡山の旭川河口に流れ着いたのです。神風に導かれたのか、漁師たちが海流に乗せてくれたのか、誰も知る由もありませんが、四国の山奥からのご神木が届いたのは確かな事実でした。
明治13年(1880)冬至、大元の地に堆く積まれたご用材を前に手斧初式(起工式)がつとめられ、ちょうど一年後が立柱式、そして明治16年(1883)4月の上棟式を経て、今から130年前の明治18年(1885)4月18日に、教祖宗忠神のお住まいのあったその場所に、威風堂々荘厳美麗の宗忠神社は竣工の時を迎えたのです。
黒住教の大元、お道の大元に傾注された明治の先輩方の燃えるような信心に、深い感動を覚えます。揺るぎない信仰の柱を受け継いでまいらねばならないと、決意を新たにするものです。