活物をいかで知らまし宗忠の
         神の教えの世になかりせば(加古原淡路大人詠)

平成27年4月号掲載

 活物とは、すべてのものを生かそう、育てよう、幸せにしよう、より完全にしようとおはたらき下さる“天地生々の霊機”で、天照大御神の有り難くも尊いご神慮そのものです。

 教祖宗忠神は「神といい仏というも天つちの誠の中にすめるいきもの」(御歌99号)と詠まれ、「『誠』は『いきもの』」と御教え下さいました。

 「ただ何事も取り違えにて、生を死と思い死を生と思うこそ、気の毒なる次第なり。そのわけは、日月天照大御神様または仏などを死物と心得候ゆえに、かのかげの命(肉体の命)をおしみ、本体のいきものばかりの心をころすなり。心こそいきものなり」(御文11号)とお諭し下さっているように、天照大御神からいただいた“心の神”たるご分心(みわけみたま)こそが「活物」なのです。

 そして「人々の誠のところより、天地の誠のいきものを、よびいだすと存じ奉り候」(御文12号)、すなわち私たちの誠を以って天照大御神の活物を呼び出せば、必ずご神徳(おかげ)をいただけることを明らかにして、御教語「活物を捉えよ」の一言で、御道修行の根本である眼目を示して下さっているのです。

 そこで今月の御教えですが、教祖神直門の時尾宗道高弟のお導きで黒住門下となった加古原淡路先生が、「もしも宗忠神の御教えがこの世になかったならば、『活物』をどうして知ることができたであろうか…」と、感慨一入に「活物」を知り得た感動を詠まれた道歌です。実は、この込み上げてくるような感動と打ち震えるような感謝の心こそが「活物を捉えた」状態と理解して間違いありません。

 今から201年前に、黒住宗忠様が尊き天命を直授なさって黒住教が立教なったからこその私たち黒住教お道づれの幸せです。ただただ「有り難うございます…」の言葉しかないはずです。立教二百年という掛け替えのない嘉節に立ち合わせていただいた私たちは、今あらためて原点に立ち戻る思いで、感動と感謝の心で道の誠を尽くしてまいりましょう。