朝顔の花の姿に迷うなよ
日かげまつまにしぼみぬるかな (御歌2号)
平成24年11月号掲載
教祖宗忠様の、御令室いく様への情愛の深さは、幾つもの御逸話(ごいつわ)から伺うことができます。
奥様がお手洗いから出るのが少し遅いだけで、わざわざ戸口まで行って「奥や、別条はないか…?」と声を掛けられたという話や、講席に参られた奥様に「奥や、よう参ったのう!」と言って、「さて皆様、ご覧の通り、今、奥が参って来ました。家のことがせわしいのに、それを片付けて、夜道を一里以上もひとり歩いて参って来ました。なんと感心なことではございませんか…」と人々の前で奥様を称(たた)えて高座を降りられたこと、また、教祖様にお茶を出される奥様に向かって、恭(うやうや)しく二拍手してお茶を受けておられたことなど、いわゆる夫婦愛に止(とど)まらず、いく様の“神格”を尊重・敬愛された、人として夫としての尊き御姿でした。
情愛の深いお人柄であっただけに、奥様のご昇天に際しての教祖様の御逸話には一層胸を打たれます。
御神前で御祈念をつとめている時に、重態であった奥様が昇天されたことを知った教祖様は、そのまま暫(しばら)く気を失って、間もなくして意識が戻ると、「今はゲビたのう…」と漏らされたそうです。「ゲビた」とは「しくじった」という意味の岡山弁で、お心の動揺を素直に明かされたのでした。
そして、次の三首の御歌を詠まれました。
「夢の世をゆめと知れども覚めやらずさめたる人のこいしかるらん」(御歌193号)
「昨日(きぞ)の花きょうの夢とはききつれど今の嵐はうらめしきかな」(御歌194号)
また思い直して一首
「世の花は散らばや散れよ天つちにつきせぬ道の花を咲かせん」(御歌195号)
いずれも奥様への深いお心が伝わってくる御神詠ですが、三首目のご心境こそ、今月の御教えでもご忠告下さった「迷い」という恐ろしき淵(ふち)に迷い込まないための「道ごころ」で、まさに御身をもって教祖様が示して下さった有り難き御教えです。