迷うべき人のこころぞたのもしき
       迷いなければ楽しみもなし(御歌155号)

平成24年9月号掲載

 先月の御教えとしていただいた「迷いこそ世におそろしきものはなし鬼としりつつくわれぬるかな」(御歌169号)とはまるで異なる、「迷い」に対する積極的な姿勢が詠まれた御神詠が今月の御教えです。「迷いほど世に面白きことぞなし迷いなければ楽しみもなし」(御歌150号)とともに服膺(ふくよう)して、“人生の横綱相撲”の秘訣(ひけつ)を学ばせていただきましょう。

 災難さえも有り難く受ける心をユーモラスに説かれた「難有有難(なんありありがたし)」に代表されるように、教祖宗忠様の御教えは徹底した「活(い)かし上手」が基本です。喜ばしいことは一層嬉(うれ)しく有り難く、当たり前なことにこそ感謝して、そして厳しい現実さえも前向きな心で乗り越えて有り難い人生の糧にできるように、目の前の現実を活かし切ることの大事を教祖様は徹底して教えて下さっています。
 この積極姿勢は「迷い」に対しても同じです。「鬼としりつつくわれぬるかな」とまで警告しながら、それは同時に「迷いなければ楽しみもなし」という“楽しみの素因”であると明言して、「迷い」ほど興味深い(面白き)ものはなく「迷うべき人の心」こそ「たのもしき」と、「一切神徳(すべておかげ)」の揺るぎない確信が貫かれているのです。

 本稿を通じてたびたび学んできたように、「ご分心(神の心・心の神)をいただく神の子」として「おかげの受け皿たる心の祓い」こそ私たちにとって一大事で、「迷い」は「我(われ)(我欲・我執)」と並んで、祓われなければならない「罪・穢(けが)れ(気枯れ)」そのものです。しかし、「祓わなければならない」という執着がさらなる「迷い」を生じさせるところに「心の祓い」の難しさがあります。教祖様の絶妙な「心の活かし方・用い方」を、常に学び続ける黒住教道づれでありたいものです。

「祓えどもまた祓えども祓えども祓いがたきはいずる雲かな」(御歌160号)
「いずる雲ただそのままに置きぬればまたはるるときまつぞ楽しき」(御歌161号)