ここに来て口ばかりにてとく道を 耳ばかりにてきき給え人(御文49号)

平成22年11月号掲載

 先月号の本稿で、教祖様の代参として伊勢に参宮した時尾宗道高弟が、天照大御神様とのお目通りを願ってお祓いを唱え続けている時に心に浮かんだ和歌を紹介しました。

「唐土(もろこし)の山の彼方の小咄(こばなし)も
                耳がなければ聞こようものを」

「遥か中国の山の向こうの些細(ささい)な話さえも、耳に頼らなければ聞こえるものを(耳で聞こうとするから聞こえない)」というこの歌と、まるで正反対のようで、実は相通じる大切な一つの真理を教えていただいているのが今月の御教えです。
 教祖様の説かれる御教えは「天言」で、無念無想、無心無我の境地から「浮かびのまま」を発せられた、「神の声」でした。「この場において、(音声を発信する)“口”だけで説く天の教えを、(音声を受信する)“耳”だけになって(純粋素直に)お聞きになりなさい」との御教えは、知恵や計らい、自分なりの判断や推測を交えて都合よく解釈しようとする門人たちへの厳しい戒めでした。聞こえているのに聴けていないが故に、真素直に「耳ばかりにてきき給え」とご指導下さった邪心なき心の大切さと、聞こえないから聞けないのは「耳だけを頼りとしているから」であって、音声は聞こえずとも心で見聞きはできるということを、身をもって体験した時尾高弟の教えから、私たちは姿形なき心の用い方の秘訣(ひけつ)のようなものを窺(うかがい)い知ることができます。

 敬神崇祖の念なき唯物思考が常識化される一方、現実逃避を促す無責任な信仰がスピリチュアルという名のもとに“商品化”され、また、ストレスの一言で片付けられる病源による心の病に苦しむ人が蔓延(まんえん)する世の中です。「心をもって心を養え」、「心で心に祈れよ」等と、自分の心を鍛え養い育てて用いる術(すべ)を御教え下さった教祖様の「心なおしの道」を、自らの生きる指針とさせていただくとともに、周囲の悩み苦しむ人々に伝えて、ともにおかげをいただいてまいりたいものです。