わがわれと思うわが身は天のわれ
わがものとては一物(いちもつ)もなし(御文249号)
平成23年2月号掲載
科学技術の目覚ましい発展と実用化、そしてデジタル社会の到来により、私たち現代人の生活は大きく様変わりしました。この物質文明が高度に進んだ社会の中で、一人ひとりが心身ともに健やかで幸せな人生を送るには、よほど心して思慮深く賢明にしっかりと生きなければなりません。
“文明の利器”と称される無数の便利な機械のおかげで、私たちは多くの場面で、記憶・思考・判断・移動・労働などの生きる上での基本作業を省略できるようになり、ボタンやキーボードをタッチしたり叩(たた)いたりするだけで、日常生活のかなりのことが楽に行えるようになりました。指示(インプット)さえ間違えなければ、結果(アウトプット)は当たり前のように得られるのですから、過程(プロセス)のもたらす価値が尊重されにくくなり、得てして結果(成果)だけが最優先される人間社会になりがちです。人間社会と申しましたが、社会の最小単位である家族さえもいつの間にかバラバラになってしまう、個化・無縁化の加速する時代でもあります。
「自分は、ひとりで生きられる。人の助けは必要ない」と本気で思っている人が増える一方であることも、これだけ便利な世の中でしたら想定外な現象ではありません。そこまでの“独り善(よ)がり”の勘違いにまでは至らずとも、大人も子供も誰(だれ)でも、更なる“わがまま(自分勝手)”のできる環境が整備され続けるのが文明社会であると言えます。
ボタン一つで心の豊かさが得られるはずなどありませんが、これほど便利で快適な社会に生かされていることへの幸せ感であるとか、停電になるだけで電化製品はもちろんのことストーブとかトイレまでも使えなくなるような脆(もろ)い社会だという認識だとか、道具が便利になっているだけで人と人との繋(つな)がりがないと社会は機能しないという当たり前であるとか、少し考えるだけで気付くことは多いはずです。現代人への厳しい戒めとして学ばせていただける今月の御教えです。
「何事も天のものにてあるものをわがもの顔でつくる罪とが」(御歌146号)