有る無きの中にすむべき無き物を なきと思うななき心にて(御文10号)
有る物はあるにまかせて無き物を 養う人ぞありがたきかな(御文88号)
平成21年4月号掲載
先月と先々月の本欄で学んだ「離我任天」という山の頂(いただき)を目指すお道修行は、「養無(無を養う)」の一言に集約された悟りの境地への本道です。
迷いや我欲に足を取られながら山中を進む修行途上の者が、山頂に“ある”らしい“なきもの”を語ることなど到底できませんが、教祖様が繰り返して説かれた「無」について学んでおくことは重要です。
前者の御歌を詠(よ)まれた教祖様は、引き続いて次のように御教え下さっています。
「神・仏も人の霊も、このむちゃくちゃにて、何とやら相わかり申すべしと存じ奉り候(そうろう)。ただ明け暮れ有り難きのみにて、何もかも考え申さず、ただ日々(にちにち)に、日月(じつげつ)と共に心を楽しむばかりになさるべく候。ご奉公も何をなされ候とも、日月のためとおぼしめし、よき事ござ候(そうら)わば、日月と共によろこび、あしき心を去り候えば、あしき事有るときは、またよき事のこやしとおぼしめしなされ候えば、これもまた楽しみに相成り申すべく候」(御文10号)
御教えを理解することはできても、実行できるかどうかが一大事です。後者は、身近な人を失って悲嘆する門人の方に、教祖様が厳しくも慈しみに満ちた御手紙の中で詠まれた御歌です。
「何かに付けお忘れなされずとの御事、ごもっともには存じ奉り候えども、もはやあとへ帰らぬことにござ候あいだ、ここがすなわち祓(はら)いのところにて、いつまでも帰らぬ事をしたうは執着(しゅうちゃく)にて、過ぎたる人のため、はなはだよろしからず、尊君様(そんくんさま)のおためもよろしからず候あいだ、御着をおやめなされ候て、時々お祭りなされ候方(ほう)よろしく候あいだ、さっぱりと御着はおはらいなさるべく候。(中略)とかく心を養うところ第一と存じ奉り候」(御文88号)
「無を養う」とは、遠い道程(みちのり)の遥(はる)か先にあることではなく、現在只今(ただいま)の心を養うことであると、改めて深く学ばせていただく次第です。