天照らす神の御徳(みとく)は天つちに
         みちてかけなき恵みなるかな(御文85号)

平成26年3月号掲載

 毎朝唱える御日拝奉讃歌(ほうさんか)として、また毎日の食前の祈りとして、私たち黒住教道づれにとって最も馴染(なじ)みのある御神詠が今月の御教えですが、教祖宗忠神のお説教中に、まさに“浮かび”のままに誕生したことが御逸話(ごいつわ)集に記されています。

 あるご講席でのこと、「天照大御神のご神徳は、天地の間に満ち満ちて欠ける所なき尊き御(み)恵(めぐ)み…」という意味でお話しになるところを、「天照らす神の御徳(みとく)は天(あめ)つちにみちてかけなき恵み」と、すらすらと仰せになり、そのまま「なるかな」と言葉が続いて、思わず「おっと、これは歌になりました!」と、ご自身も驚かれたというのが御歌誕生のエピソードです。初めから歌を詠むというおつもりではなく、自然に、無意識のうちに、まさに天言(てんげん)がそのまま現れた有り難さを深く味わいたいものです。

 同様に、教祖神の“浮かび”のお説教に関して次のような御逸話があります。

 岡山から20里(約80㎞)以上離れた津山(現岡山県津山市)の安黒という地でご講席が開かれた時のこと。はるばる岡山から大先生がお出ましになるということで集まった多くの人々を前にしてのお説教は…  「皆様、有り難いことでございます。まことに、お道は有り難いものでございます。天照大御神のご神徳は、実に何と申しようもなく有り難いことでございます。思えば思うほど、有り難いことであります。本当に有り難いことでございます!」と、「有り難い」を5回繰り返して仰せになっただけでした。にもかかわらず、会場には「有り難さ」が満ち満ちて、多くの人々が感涙にむせぶ様子であったとのことでした。

 「天言は、この左京(ご自身のこと)の自由にはなりません!」とだけ仰(おっ)しゃって退座された話や、門人の武内来蔵先生ただ一人の前で一時(いっとき)(約2時間)もの大説教をなさって、「我(われ)を離れた天言は、八百萬(やおよろず)の神々がお集いになり喜んでお聞きになっています!」と仰せになったことなど、教祖神なればこその御逸話ですが、天地に満ちて欠けなき天照大御神のご神徳の有り難さを、片時も忘れることのない黒住教道づれでありたいものです。