草も木も根のなきものはなかりけり 日月を人の深根(ね)とはしらずや(時尾宗道高弟詠)

平成20年11月号掲載

 戦後の日本社会に欧米の個人主義が導入されて60有余年。利己主義(または自己中心主義)との違いも意識されないまま“戦後の常識”として定着する一方で、わが国古来の伝統精神はまるで“戦前の非常識”のように軽んじられてきたと言うと言葉が過ぎるでしょうか…。そろそろ“日本流個人主義”とでも呼べる“個人の生き方の基本ルール”が、明確に意識されなければならないと思います。

 そもそも欧米流の個人主義は、「個人の自由と権利が保障されるとともに、個人の責任と義務が厳しく課せられる考え方」です。「自由と権利の保障」は広く知られるところで、その側面だけが突出して、利己主義(または自己中心主義。すなわち“わがまま”ということ)と混同されやすいのだと思いますが、もう一方の「責任と義務の徹底」を知ると、実は私たちには理解できないほど冷徹な思考形態であることが分かります。 日本古来の考え方が、個人よりも家や社会(ひいては国)に重きが置かれていたことは否(いな)めませんが、それは同時に、責任や義務という側面も「連帯責任」として公(社会)が請け負ってきた歴史でもありました。奉仕や公共の精神を忘れた身勝手な“わがまま”が増える一方の今の日本社会は、「『自由と権利の保障』は戦後流、『責任と義務の負担』は戦前流」の“ご都合主義”が行き着いた結果といえるのかもしれません。

 いずれにしても、現実問題としてますます“個化”の進む現代社会にあって、今まで以上に自己確立と自己責任という「自己」の在り方が問われています。自分自身の拠(よ)って立つ〝根っこ〟は先祖代々受け継がれてきた歴史や伝統文化であることを考えると、「日の本」に生きる日本人としての自覚の上に個人を意識する生き方が、現代日本人に必要であるように思います。

「人とは『日止(とど)まる』の義なり。『日と倶(とも)にある』の義なり」(御教語)