十年の計の「うったての年」
教主 黒住宗道
「よりよく生きるための“五つの誠”」の各項目を基本として二年毎に発表している「信心心得」(旧「修行目標」)ですが、本年と明年の《祈りの誠》「活かし合って取り次ごう! 日拝に始まる日々の祈り」を、ご自身は元より、ご家族、そしてお道づれ同士で互いに研鑽・錬誠する思いで励行推進して下さいますよう、まずは心からお願いいたします。
その上で、本年からの十年間を一層「ともに誠を尽くしてまいりましょう!」という心を込めて、「気合を入れて物事を始める」という意味合いの岡山の方言である“うったて”という言葉で呼び掛けさせていただきます。
「うったて…? 以前にも『道ごころ』で目にしたことがあるような…」と記憶を辿って下さる方があると嬉しいですが、平成三十年(二〇一八)十一月号の本稿で「教主としての『うったての年』を振り返って」と題した文章を以って、七代教主としての最初の十二カ月を総括した時以来の再登場です。その際にも紹介しましたが、かつて神道山へのご遷座に向けて着々と計画が推進されていた昭和四十七年(一九七二)正月に、いよいよその年の十一月十一日の起工式に始まる大教殿の建設を、五代宗和教主様が「うったて」と表現しておられたことに感激したことです。
私は、その「うったての年」である本年が、教団成立百八十年・大明神号下賜百七十年・別派独立百五十年の年であることに、尊いご神慮を感じています。
昨年までの“祝い年”の四年間のように大々的に慶賀することはありませんが、それぞれの意義を深く学んで黒住教のお道づれ(教徒・信徒)としての自覚と誇りを、喜びとともに強く感じていただきたいと思っています。
今から百八十年前、すなわち今年と同じ丙午の弘化三年(一八四六)四月に、九人の門弟行司と呼ばれる宗忠様の門人の名の下に六箇条から成る「御定書」が発布されました。宗忠様の御徳を敬慕して自然発生的に生まれた信徒集団が大所帯になり基本的な約束事が決められたもので、その制定を以って教団成立の時とされました。「信心第一に候事」と謳われた第一条に始まる各条項の内容もさることながら、九人の門弟行司の内訳が実に“お道的”と申しましょうか、「人は皆、天照大御神の分心をいただく神の子として優劣なし」の精神が如実に表れているので紹介します。「岡山藩士二人、商人二人、百姓二人、染物屋一人、瓦師一人、漁師一人」と、身分格差社会であった江戸時代に定められた文書とはとても思えません。この門弟行司が中心になって、同年十一月に最初の大教殿といえる現在の教祖記念館の建設が発議され二年後に竣工、その二年後の嘉永三年(一八五〇)二月に宗忠様は卒然と御形を脱いで神上られました。
宗忠様ご昇天後の三年間は「高弟七人衆決死の大布教」として知られるところですが、京の都に赴かれた赤木忠春高弟を中心に展開されたのが「大明神号請願運動」でした。宗忠様がいかに高徳な神人一体の御方であっても、当時厳守されていた公から賜る神様の御位(御神号)の最高位である大明神号を請願することなど途方もない行為でした。当然けんもほろろに却下されますが、怯むことなく願い出る高弟の熱意を受けて、当時神道界を司っていた吉田殿から京都での布教許可の内意をいただき、ついに安政三年(一八五六)、すなわち神上られてわずか六年の宗忠様に孝明天皇から大明神号が下賜されて、今年は百七十年なのです。それは、「大明神号に相応しい神社の建立を!」という新たな一歩へのスタートの時でもありました。
大明神号が下賜され、孝明天皇の仰せ出された唯一の勅願所である神楽岡 宗忠神社を有していたからこそ、明治新政府による神道国教化という極端な宗教政策に呑み込まれることなく、教派神道の先駆けとして本教が別派独立を果たせたのは間違いありません。それが、今からちょうど百五十年前のことでした。
先々月号の本稿でも申し上げたように、長い歴史を重ねると「毎年が記念の年…」のように思われるでしょうが、当面の目標である令和十二年(二〇三〇)の『教祖神ご降誕二百五十年』」と、そこから令和十七年(二〇三五)の「大元 宗忠神社ご鎮座百五十年」までの五年間という「十年の計」の初年が、教団史を振り返っても、後の発展の起点の年の節目に当たる意義はとても大きいと思います。実は、「十年前の立教二百年大祝祭を中心とした四年間(祭り年)を終えた直後の平成二十八年(二〇一六)はどうだったか…」と気になって記録を紐解きましたら、あの年は二月の“祭り年”満願成就御礼の「伊勢万人参り」で始まり、四月の教祖大祭において教主様(現六代様)から明くる年(平成二十九年)九月十八日のご勇退(教主交代)が正式に発表され、前例のない教主継承式に向けた計画が俄かに展開された年でした。年間を通じて「教団成立百七十年、大明神号下賜百六十年、別派独立百四十年」の節目が特別に意識されることは結果的にありませんでしたが、新たな時代に向けて始動した年という意味では、明らかに「うったての年」でした。
加えて申せば、宗忠様がお説きになっていないので私たちは十干十二支に関連付けて道の教えを説くことは滅多にありませんが、先述の「御定書」や「天心」と宗忠様が揮毫された離我の書として名高いご染筆などに「弘化三年丙午」と「丙午」の文字が見えますので、簡潔に紹介しておきます。「丙は、火の陽(兄)。燃え盛る炎。午は、正午の刻で真南の方角。中天の太陽」と、最大・最強の勢いある年回りのようです。
まずは、四月五日の欽行百四十年宗忠神社御神幸と六月七日の第六十三回神宮式年遷宮第一回お木曳行事への参拝・奉仕を、積極的に次世代の人たちや知人・友人に呼び掛けてご神縁を取り次いでいただくことから、丙午の勢いよろしく十年の長期的視点で起動して下さいますよう、お道づれの皆様に心から願い祈り期待することです。
