人のために祈る
(元旦放送のRSK山陽放送ラジオ番組「新春を寿ぐ」※より)
教主 黒住宗道

 新年あけましておめでとうございます。この一年の皆様のご多幸と、ご安全を心からお祈り申し上げます。

 本年の「新春を寿ぐ」は「人のために祈る」と題してお話しします。

 「それが仕事…」とは申せ、私は黒住教教主として毎朝の日の出を拝む日拝に始まり、日に何度も「人のため」に祈っています。「天照大御神の御開運」という「一切万物の親神である天照大御神の隆昌発展の祈り」を通して「全てのいのちの繁栄」と「世界の平和と調和」そして「全人類の幸福」を祈念し、とりわけ病み悩み苦しんで教主御祈念まで申し込んだ人々が「何とぞ『日の御蔭』を受けて、本来の元気が喚起されて本復されますように…」と懸命に祈り続けます。よく、「御祈念の依頼を受けた時にだけ祈っている」と思われがちですが、一度の祈りで奇跡的な効果が現れたなら、それはそれでこの上ないことですが、依頼を受けてつとめる御祈念は、あくまでも“最初の一歩”で、参拝者に持ち帰っていただく「禁厭」という御札とは別に「据え置き御祈念」と称する「禁厭」を御神前に供え置いて、私はもとより御神前で祈りをつとめる全ての神職、また参拝者が事ある毎に手を合わせて祈り続けます。そして、教祖宗忠神の御姿を手本にして、私たちは「人のために祈ろう」を日々の祈りの実践徳目として掲げ、自分や家族のためだけではなく、周囲の病み悩み苦しむ人のために祈ろうと呼び掛けています。

 「人のために祈る」ことは、決して難しいことではありません。例えば、大きな災害が発生した被災地からの報道に接した時、誰もが「一刻も早く事態が収拾して、被害が最小限に食い止められ、速やかに救助と復興が進みますように…」と祈らずにはいられません。また、応援しているスポーツ選手やタレントや役者の人たち、流行りの言い方をすると“推し”の対象者の成功を願い祈らない人はいないはずです。被災者と“推し”の対象を並べて語るべきでは、もちろんありませんが、悲しみや苦しみに思いを寄せて祈り、試練に立ち向かう姿を激励しながら祈り、笑顔と涙を我が事として共感する「人のための祈り」は、誰でも自然に行える行為であるとともに、実は、それ自体が、祈る人の心を大きく豊かに養う行為でもあって、敢えて申せば「自分のため」でもあるのです。

 それはボランティア活動と同じです。援助や支援を必要とする人たちへの活動は、純粋に相手を慮っての奉仕活動であるべきなのは当然ですが、ボランティア経験のある人なら誰でも知っています、それが「自分のため」でもあるということを。

 「きっと御礼ぐらいは言われるだろう…」と予想しながら、実際に心からの感謝の言葉を受けて何物にも替え難い感動を味わい、時間もお金も汗(すなわち労力)も相手のために費やしているのに「この満ち足りた気持ちは何なんだろう…」と思いながら、他では味わえない経験を重ねて、いつの間にかボランティア活動が自分の生き甲斐になっているという人は世の中に数え切れないほどいるはずです。「自分を後回しにして他者のため、とりわけ助けを必要としている人のために尽くす行為自体が、すなわち自分のためでもある」からこそ、昔の人は「情けは人のためならず」と教えたのです。

 「情けは人のためにならないからかけない方がいい」と理解する人が過半数の時代になり、「言葉は“生き物”なので、やがて『それも正しい』と辞書に記載されることになるでしょう」という専門家の予測を聞いて呆れたことです。ただ、「『人に情けをかけることは、巡り巡って自分がかけられることだから、かけておいた方がいい』という、“正しい意味”とされる今の解釈が『計算高くて嫌だ』と感じる人たちが少なくないから、『人に情けはかけない方がいい』と解釈する人が増えているのかもしれない…」との意見を聞いて、私は頷かざるを得ませんでした。と同時に、一層「“真の意味”の伝道師であらねば…」という使命感のような思いで、今も公共の電波を使ってお話ししていることです。すなわち、「人に情けをかけることは、人のためだけではなく、即座に自分のためでもある」から「情けは人のためならず」なのです。

 ところで、昨年話題になったテレビ番組の一つが、空腹の人に、自分はパワーダウンしても自らの顔を与える“強くないヒーロー”を生み出した漫画家のやなせたかしさん夫婦を描いた「あんぱん」でした。晩年のやなせさんが、「人を喜ばせ合う『よろこばせごっこ』を世間に流行らせたい…」と語っておられたことを知って、「『与えるところに与えられる』真理を知っているやなせさんらしい…」と感心したことです。いわゆるお説法の例え話として知られるところですが、「盥の中で正面の水を取り込もうとしても脇の下から水は逃げてしまうが、目の前の水を押し出すと逆に入ってくる」のが「与えるところに与えられる」真理です。一般的には「give and take」の経済社会ですが、実は「give and be given」で、先代の教主であった私の父は「人は人に尽くして人になる」と説き、「損をして徳(人徳の徳)をとりませんか…?」とユーモラスに語りました。

 黒住教教主という一人の宗教家として、私は「祈りに基づく行動と行動を伴う祈り」を常に心掛けたいと肝に銘じてつとめてきました。高尚な志に聞こえるかもしれませんが、これまでお話ししてきた理由で、それが自分の喜びでもあるからです。人のためであると同時に自らのためでもあることを生業にできることは有り難い限りです。一層、しっかり「人のために、祈りと奉仕に誠を尽くさせていただこう」と自然に思えることが、また有り難い…。

 昨年、当番組で「より良く生きる」と題してお話しした内容に繫がりますが、「マインドフルネス」とか「ウエルビーイング」、また「よく生きる」・「よりよく生きる」という言葉で表現される「一人ひとりの精神的な充足感」を探し求める多くの現代人にこそ、私は「人のために祈る」ことの喜びを知ってもらいたいと願っています。

 あらためて、世界の平和と皆様のこの一年のご多祥・ご多幸、天地のご安泰を心からお祈り申し上げます。有り難うございました。

※ RSK山陽放送ラジオは、昭和二十八年(一九五三)に岡山市に開局し、以降毎年、元旦放送恒例の第一声として、五代宗和教主様の「新春を寿ぐ」とのご挨拶を放送してきました。同四十九年(一九七四)からは、六代様が同放送を受け継がれ、平成三十年(二〇一八)より現教主様に継承されました。