第二十九回日本統合医療学会学術大会
 “死”を語る、“生”を問う ─ シンポジウム発題
「病も気から ~限りなき身と思う嬉しさ~」②
教主 黒住宗道

 「病も気から」という演題に込めた「も」の意味を、既に皆様にはお察し下さっていることと存じます。気持ち次第で困難が解消するほど現実は容易くありませんが、困難を克服できるかどうかという時に「気構え(気合)」と「気の持ち方(気持ち)」が重要であることは明らかです。「いわんや、『気を病む』と表記する病気の時においてをや…」です。ご分心を通じて万人が須らくいただく天照大御神のご神徳は〝陽気〟と〝元気〟という生命力・活力ですから、病気の時にこそ、存分にしっかりいただくために〝わが心〟という受け皿づくり(養心・心なおし)が肝心なのです。

 ただ、いわゆる「前向き思考(プラス思考、ポジティブシンキング)」だけでは不十分で、結局は「何事もおかげさまで…」という謙虚さと感謝の心が最も重要であり、それが「信仰心」に基づくものであってもらいたいと、私は切に願っています。

 信仰心がなくても謙虚さと感謝の心を持つことはもちろんできますが、〝サムシング・グレート(何かしら偉大なる存在)〟への畏敬の念をもって、恐れ慎み感謝し反省する信仰の心、すなわち宗教心は、とりわけ何もかもデジタル化され極度に進化発展した情報・物質文明社会に生きる現代人が決して失ってはならない心だと確信します。

 この〝サムシング・グレート〟を、ゴッドやアッラー等の尊称で、世界の宗教がそれぞれに称えてきたわけですが、私たち黒住教においては、古来日本人が太陽神として崇めてきた天照大御神を万物(宇宙)の親神の〝目に見える(顕現した)御姿〟として称え敬い信奉しているのです。

 「太陽という星(恒星)が神ではないが、太陽のはたらきは神のはたらきである」という信仰を、私は原始的(プリミティブ)だとは思いません。最先端の科学技術を以てしても解明できないことだらけの自然界のはたらきを、全て尊い神の御業(ご神慮)と信じて仰ぎ(信仰して)、「一切神徳(全ておかげ)」と拝んで受ける(拝受する)生き方が、私たちの信仰生活なのです。

 こうした、日本人が古来重んじてきた〝お天道様〟・〝お日様〟への信仰の本義・真意を説き明かし、文化十一年(一八一四)の冬至の朝の日拝中に、迫り来る旭日の光の塊をごくんと呑み込んで天照大御神と一体の境地に立ち(天命直授)、今も敬慕尊信する人々を守り導き救い助けて下さる神として信仰されているのが、教祖宗忠神(宗忠大明神)です。その教えが「養心法」・「心なおしの道」と称えられてきたことは先述の通りですが、風雲急を告げる幕末の内憂外患の混乱期に、時の孝明天皇(明治天皇の御父上)から宗忠大明神という最高の神の位(神号)を賜り、御所の真東に建立された神楽岡宗忠神社は孝明帝が仰せ出された唯一の勅願所として鎮護国家の祈りが日夜捧げ続けられていたという歴史的事実もあわせて紹介しておきます。

 〝布教〟ではありませんが、宗忠神のことをしっかりお話しすべきと考える理由を敢えて申せば、万物の親神たる天照大御神は、私たち個人の願い事の成就や幸福や救済のために守り助け導いて下さるような次元の神ではないからです。

 キリスト教を信じる人がイエスに救いを求めるように、またイスラームを信仰する人がモハメッドの言葉(預言)にすがるように、私たちにとって「宗忠神が必ずお導き下さる」と信じ切れる強い信仰心を持てることはとても重要なことです。誰もが天照大御神の分心をいただく〝神の子〟とは申せ、自力だけで艱難辛苦に立ち向かって克服することは容易ではありません。「この宗忠を師と慕う者を決して見殺しにはしない。ついて来なさい」と力強く宣言された「天照大御神とご一体の教祖宗忠神」のおはたらきを信じ切ることで、とりわけ病み悩み苦しむ時に一層の生命力・活力がもたらされることは間違いないのです。

 冒頭に紹介いたしました「人は、万物(宇宙)の親神である天照大御神の分心をいただく(=日止まる)〝神の子〟としてこの世に生を受け、人生(道)という修行の場(道場)でのつとめを終えて、八百萬神の一柱の〝神(御霊)〟として天に帰って生き通す」という黒住教の世界観の、終わりの部分についてお話しします。

 黒住教では、人が亡くなることを「形を脱ぐ」と表現します。「死によって一切が消滅するものではない」という〝霊魂不滅〟は世の中の大方の宗教が説きますが、この類の話題になると決まって〝あの世(死後の世界)〟の話になり、まだ死んだことのない人たちが諸説を語ってきました。ところが、宗忠神は「どんな世界か」は一言も語らず、「死後も本体(ご分心)は生き通すと信じて、それまでの人生と変わらず誠実に生き続けること」の大切さを教え示して、「生き通しとは現在只今なり」と説きました。

 まず「生き通し」についてですが、十七世紀の数学者・哲学者・神学者であったフランスのブレーズ・パスカルが「死後の世界があるかないか」を論じた「パスカルの賭け」で、「ないと思って生きて実際にあった場合と、あると思って生きて実際にはなかった場合」のどちらに賭けるかと問い掛けて「自分は後者」と回答し、日本人哲学者の三木清は処女作「パスカルにおける人間の研究」で、この「賭」について丹念に論考を重ね、代表作『人生論ノート』の中で「自分も『ある』に賭けるほかない」と結論づけているように、「どんな世界か…」は別にして、私たちは「生き通し」を信じる方が論理的だと確信しています。

 次に、ニーチェや西田幾多郎など名高い哲学者も論じた重要なテーマに「永遠の今」(独語:ewiges jetzt、英語:eternal now)という概念があります。「永遠の時間の流れの中の今という一瞬を端的に示した事実のみを表現した用語で、〝永遠の命〟とか〝死後の世界〟といった宗教的な意味合いは込められていない」とのことですが、「生き通しとは現在只今なり」の教えをいただく私たちは、「生き通しという永遠の時間の中の現在只今という瞬間を誠実に生きる」ことの大事を学ばせていただける言葉として重宝しています。

 最後に、「八百萬(万)神」は、世の中の全ての尊いはたらきを神と称えてきた日本古来の神道ならではの大らかな信仰の伝統ですが、天照大御神の分心をいただく〝神の子〟として生まれ、形を脱いだ後も尊い八百萬神の一柱(柱:神を数える際の単位)として生き通す有り難さを自らの心に刻む思いで、私たちは毎朝の日拝をつとめているのです。

「日拝奉讃歌」
 天照らす神の御徳は天つちに みちてかけなき恵みなるかな
 日々に朝日に向かい心から  限りなき身と思う嬉しさ
   かくこそと詠ませ給える御教えを 心に彫りて日々につとめん 日々につとめん