教書に学ぶ教祖神の親心 三
教主 黒住宗道

 久々に当「道ごころ」にて、「教書に学ぶ教祖神の親心」を学ばせていただきます。

 今回紹介する御書簡は、文政七年(一八二四)八月から翌年五月までの石尾乾介高弟三度目の江戸詰め(参勤交代による池田家の殿様の御供としての江戸勤務)期間中の御文三五号から御文三九号までが該当します。申し上げるまでもなく、本来は一文一文の一言一句を自分自身に宛てられた教祖神からのお手紙という思いで有り難く拝読すべきですが、月に二回(二日と十六日)しかない岡山−江戸間の唯一の通信手段(飛脚便)を通して、実に細やかなお心遣いが示された御文を通読することで、教祖神の石尾高弟に対する親心、そしてお二方の御心の温かい交流を感得してください。

 さて、今回は御文をいただく前に触れておかなければならない事があります。前回(本誌令和五年四月号)の最後に紹介した文政七年正月十五日付の御文三四号は、二度目の江戸勤務を終えていよいよ帰藩する石尾高弟に宛てた当期最後のお手紙であり年賀のご挨拶でしたが、高弟の帰着を前にした三月十二日に、教祖神は京の都に向かってご出立になり、都での御神用の後に、そのまま二度目の伊勢参宮をなさいました。

 都での御神用というのは、当時全国の神社を司っていた吉田殿(吉田神社)から今村宮の禰宜職継承の裁許を受けることでした。『黒住教教祖伝』(黒住忠明著、日新社発行)に写真が掲載されていますが、文政七年三月二十日と明記された裁許状に「黒住左京藤原宗忠」という御名を拝見することができます。また、御歳二十四の時の初参宮に際しての願書は御父上名で提出されているので、この度はご自身の御名による初めての参宮を果たされたということになります。そして、四月九日にご帰宅になった翌五月付で「神文の事一奉祈誓二度奉蒙神宣云々」という心願を立てられました。天命直授のご体験から十年、新たなご決意で臨まれる日々の御書簡、すなわち御文三五号以降には「黒住左京」のご署名が認められることになります。

 なお、この時の旅の記録が「伊勢参宮心覚」として『黒住教教書』に記載されていま すが、その一節が「先吉田日本六十余州御神を勧請有し霊地拝し夫より真如堂黒谷へ参り…」です。現在、京都の吉田神社・大元宮から真如堂、黒谷へ向かおうとすると、道中には神楽岡・宗忠神社が鎮座しています。三十八年後の文久二年(一八六二)に、ご自身が御斎神として祀られる神社の境内地を実際に歩かれているというご神縁に胸が熱くなります。

 大切なこととは申せ“前置き”が長くなりましたが、御文三五号は、文政七年三月十九日の帰藩から五カ月足らずの同年八月八日にご出立になった石尾高弟が、すでに壮健に執務していることを教祖神に報告なさったと拝察される御手紙への返信として九月朔日に認めておられます。この御文で、教祖神は「色々の邪魔物も次第にしつまり候様に…」と、前年来の流言・誹謗等による騒動が鎮まりつつあると述べ、「此度大難儀に御座候 しかし此方先方之ぬけをとがめず此方の清所ばかり打ぬき候得ばよろ敷御座候」という尊い御教えをもって一連の出来事を総括しておられます。

 翌十月朔日付と同月十三日付の御文三六号と三七号は、「道も先ぬるみ合にて」(三六号)とか「何もかも小供のまゝ事の様におもはれあほふらしゆうて」(同)、また「小子執行目を付候処は未勤り不申候 宙にぶらりにてつまり不申」(私の修行は目標としているところはまだ勤まっておりません。中途半端でつまりません:三七号)と、教祖神の御言葉とは俄かに信じ難いような表現が連続し、さらに、翌霜月十五日調の御文三八号でも「我執行思う様に得不仕候 甚残念に奉存候得共是も又時にしたがうより外は無御座と奉存候」(自分の修行が思うようにできません。非常に残念に存じますけれども、これもまた時にしたがうより外はないと存じます)と、一見“弱気な”ご発言のように伺えます。

 しかしながら、「有無をはなるゝ所…」と言上げられて「有ははなれることは、だんだんとはなれたりもいたしますかと存じますが、無をはなれることは、なかなか天の助けがなくては自分の力ではできません」(『黒住教教書現代語訳』山田敏雄監訳、黒住教本庁発行)という御文三七号の一文や「先だって、こればかりはまだ申し上げておりませんが、無を少し離れることもございまして…」(同)との御文三八号の一節から、教祖神は私たちが想像もできないような次元で修行なさっていて、周囲とのあまりにも大きい現実の差に呆れておられるが故の“らしくない”御言葉と拝察することです。また、修行ということで申せば、石尾高弟のご修行ぶりこそ目を見張るもので、教祖神がお心内(ご本心)を打ち明けられるほどのレベルに達しておられるご様子に、道を求むる私たちの御手本としてあらためて深く尊敬申し上げる次第です。

 遂に、流言は「音も香も無御座」なって、「今までの難、道のためには広り口(端緒)」とまさに「難有有難」として御教え下さるとともに、長年修行したという神道者の質問に言下にお答えになるような事例が起こりながらも、「思ふやうに勤参り不申候」と記された同年極月(十二月)十五日付の御文三九号を以って、高弟の帰藩は翌年五月にもかかわらず御書簡のやりとりはなくなり、そして、二年後の文政九年(一八二六)の高弟の第四回目の江戸詰め期間中の御文四二号(欠番含む)まで御文は途絶えます。石尾高弟に対して「もう事細やかな信仰指導をするに及ばず」とのご判断が大きな理由であると拝察しますが、教祖神におかれましては、いよいよ文政八年(一八二五)七月二十三日から文政十一年(一八二八)四月二十三日までの約三年間にわたる「千日の御参籠」という大修行に臨まれることになるのです。