黒住遺跡から見晴るかす
吉備の中山・神道山
教主 黒住宗道

 黒住姓の発祥の地といわれる、その名も「黒住」という地名の場所が、神道山からほど近い所に存在すると聞いたことはありましたが、特に意識することもないままでした。俄に関心を深めたきっかけは、以前に本稿で紹介しました「楯築遺跡」(本誌平成三十年五月号「道ごころ」参照)に関する公開フォーラムでした。

 古墳時代初期の貴重な遺跡として、昨今、考古学界で注目を集めているのが、神道山の〝真西〟三・五kmに位置する楯築遺跡です。今、〝真西〟と記しましたが、祭儀場と思われるストーンサークルの中心と、神道山の日拝壇の中心の緯度が寸分違わず北緯三四度三九分四七秒(本誌掲載時に発表した四九秒は大教殿御神前の位置を示す数値でしたので訂正します)であったことを驚きと感動をもって知って以来、とりわけ真東から昇る旭日を拝む春分と秋分の御日拝は、敢えて申せば「古代吉備王国の先人の祈りを背中に真後ろから感じながら…」つとめています。実は、昨年一月に開催された「楯築ルネッサンス・フォーラム」という講演会に参加して、配布資料に明記された「黒住山遺跡(黒住遺跡)」の存在を初めて知ったのでした。

 今は名称さえ分かったら何でもすぐに調べられる時代ですから、黒住山遺跡(古墳群)と黒住遺跡(遺構)が楯築遺跡の北北西一・三km、神道山の北西四・五kmの岡山市北区津寺字黒住に存在することを知りました。もちろん早速訪ねました。節分明けの寒い日にもかかわらず少し汗ばむほど歩き回りましたが、史跡が記された掲示板の類は見当たらず、山腹を横切る山陽自動車道に分断されたその地は、黒住橋と刻まれた欄干や黒住甫崎公会堂や黒住墓苑等にその名を確認できる程度の小さな集落でした。正直なところ残念に思いながら見晴らしの良い場所に出てみると、すぐ目の前に楯築遺跡の森が見え、その右手前に桃太郎伝説所縁の鯉喰神社があり、そして左側の南東には田畑越しに吉備の中山が悠然と横たわり、その中央手前は吉備津神社、右端の山上が御陵すなわち中山茶臼山古墳(大吉備津彦命墳墓)、そしてその向こうが神道山…という、誰もが遥か太古の浪漫に想いを馳せてしまいたくなる穏やかな風景が広がっていました。

 しばらく佇んでから、帰宅する途中に神道山に隣接する岡山県古代吉備文化財センターに立ち寄って「黒住遺跡」について職員の方に尋ねると、「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 八九『山陽自動車道建設に伴う発掘調査』」という資料があることを教えてもらいました。

 インターネットで検索するとすぐに見つかり、「黒住・雲山遺跡」という項目だけをプリントアウトしましたが、それでも百五十ページ以上になりました。

 「本書は山陽自動車道建設に伴い、日本道路公団の委託を受け、岡山県教育委員会が昭和六十一年度から昭和六十三年度に発掘調査を実施した…」に始まる詳細な記録集には、古くは旧石器・縄文時代から、そして古墳時代を経て中世・近世に至る、この場所で発掘された遺構・遺物の数々が、綿密な説明文と手書きのイラスト、そして数々の写真とともに掲載されていました。

 山陽自動車道越しに見えるのが古墳群を有する黒住山で、スマホの地図で見ると、その山頂から七〇〇mの眼前に在るのが全国第四位の規模を誇る造山古墳という位置関係ですから、まさに古代史の中心・中枢といえる場所で、「何故このような所に高速道路を…」と当然思いましたが今更どうしようもなく、「せめて、黒住遺跡・黒住山古墳群の史跡表示くらいあればよいのに…」というのが偽らざる心情でした。

 神道山ご遷座五十年を迎えた今年、昨年から〝温存〟していた本稿を「黒住遺跡から見晴るかす吉備の中山・神道山」と題して執筆するに際して、ほんの十分ほど車を走らせて黒住の地を再び訪ねました。桜に代わって色とりどりの草花が咲き誇る里山ならではの春の匂いを嗅ぎながら、「ここからお日の出を拝んだら、冬至の旭日はちょうど神道山上から昇ることになりそう…」だとか、「造山古墳から拝すると、この黒住山が日出る山だったに違いない…」等々。まことに身勝手な〝妄想〟ですが、昨年抱いた感覚以上に、遥か太古の先祖の動向に思いを巡らせながら、まさに巡り巡って吉備の中山、その名も神道山で毎朝欠かさぬ御日拝のおかげをいただいている現在のご神縁とご神慮を、深く篤く、そして有り難く感じ入った次第です。

 いきなり大勢で訪れると地元住民の方々に迷惑を掛けてしまいますが、一度訪ねて悠久の歴史の旅を楽しんでみられたらいかがでしょうか…。