「要慎」から「要心」に
教主 黒住宗道
(元旦放送のRSK山陽放送ラジオ番組「新春を寿ぐ」※より)
新年あけましておめでとうございます。この一年の皆様のご多幸と、ご安全を心からお祈り申し上げます。「相変わらず…」と言わざるを得ないコロナ下の日々ですが、「今年こそは、晴れてコロナ明けの年になりますように…」と願い祈るばかりです。
さて、令和五年の「新春を寿ぐ」は、「『要慎』から『要心』に」と題してお話しさせていただきます。
ラジオなので少し分かりにくいですが、「ようじん」という言葉を検索すると、一般的な「用心」と、「要慎」と「要心」という三通りの漢字表記があることに気付きます(検索…ググってみてください)。いずれも同じ意味の“同義語”ということで普通は「用心」だけで十分なのですが、“第八波”への対策を講じながら「コロナ下も四年目か…」と思いつつ考えさせられたのが、今までは「要慎」だけ気にしておけばよかったけれども、今後は、まさに心して「要心」に心掛けなければならないということです。
蔓延防止のために何よりも行動制限が優先されるべき時が続きましたが、何でもかんでも「慎重に、控えめに…」の時期は過ぎました。すでに、「心して動く」、「細心の注意を 払って行動する」ことは世界中で必要なこととして認識されています。
ただ、「心を要する」と書く「要心」の度合いには個人差があるので、自分では十分だと思っていても、周囲から不十分に感じられるようなことは一層身近なところで益々頻繁に起こり得ることで、気を病んだり痛めたりすることが減ることはなさそうです。
“振り幅”が広いといわれる日本人ですから、「要心(用心)」がまだまだ必要であるにも関わらず、全く気にしない人たちが町に溢れ出ることも既にあちらこちらで見受けられますし、一方で「まだマスクははずせない…」という人の数も、当分は世界最多をキープし続けそうです。いずれにしても、良くも悪しくも「同調圧力」という「みんな」が行動規範の物差しである国民性はなかなか変わらないのでしょうから、自分の考えをより明確にもって、一層「安全」に心して行動する「要心」に心掛けて、当分続くと覚悟せざるを得ない「コロナ下(ウイズコロナ)」の日々を、強く賢く生き抜いてまいりたいものです。
ところで、昨年の秋以降の話題はワールドカップでの“サムライブルー”の大活躍でした。クロアチアにPK戦で惜しくも敗れたのは、私も残念至極の思いでしたが、その後もブラジルを破り前回の準優勝国に相応しい活躍を見せたクロアチアの選手たちが、幼い頃どんな日々を送っていたか…に思いを馳せた人はどのくらいいるでしょうか?
どの国の選手たちも主に二十代から三十代前半の年齢で、クロアチアの中心プレーヤーであるモドリッチ選手が最高齢の三十七歳であれだけ凄い活躍をするのには圧倒されましたが、彼も含めて三十歳前後の選手たちが子供の頃、彼の国は「旧ユーゴスラビア紛争」の真っ只中でした。
ソビエト崩壊後の一九九一年から十年間に及んだクロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、セルビア、マケドニア、そして今もくすぶり続けるコソボ等の人々が、自らの民族と宗教のアイデンティティーを守るために命を懸けた独立戦争を無責任にコメントすべきではありませんが、今回のクロアチアの代表選手たち、また、かつて日本で活躍したピクシーことストイコビッチ監督の率いたセルビアの代表選手たちは、戦乱の続く瓦礫に囲まれた中で、もしかすると地雷が埋められているかも知れない空き地でボールを蹴っていた当時の子供たちであることに、私たちはワールドカップの熱の冷めやらぬ内に思いを馳せておくべきではないかと思います。
それは、日本が負けた言い訳を探すためではありません。ロシアによるウクライナ軍事侵攻によって、戦争が過去のものではなく、現実の脅威であることをあらためて突きつけられた今こそ、「これまで以上に平和に対して真剣に向き合わなくてはならない…」と考えた時、「どうして、彼ら(すなわち、クロアチアの選手たち)は、あんなにハングリーでタフなんだろう…」という素朴な疑問に、彼らが背負ってきた人生を重ねて想像することは、日本サッカーの敗戦の理由のためではなく、戦争の厳しさを身近に学び実感できる掛け替えのない機会として大切なことではないかと思うのです。
このように、「安全」とともに「平和」に「心する」ことも「要心」ではないかと思います。
そこで、「平和に『要心』する」時、「戦争や紛争という殺し合いさえなければ、世界は決して『平らか』でなくても良い。何はさておき『平らか』であるという必要はない」ということを、皆さんは考えたことはありますか?
「平らかにするために戦うべし」、「平和は勝ち取らねばならない」という理屈は、残念ながら世界の常識ですが、「争いがなければ、世界は平らかである必要はないし、みんな違っていても構わない。それどころか、違っている(すなわち、異なっている)のが自然界の当たり前」とする、「和」そのものを重んじる精神が世界中でもっと重んじられたら…と切に切に願います。
「和やか」とともに「和える」とも読む「和」の「おおらかさ」こそ大切だと思います。たとえば、「白と黒を混ぜると灰色ですが、和えると斑」であるように、「和える」は、「それぞれの個性を残したまま共存する」という意味です。決して「平和」という言葉を軽んじるものではありませんが、「大いなる和」としての「大和」の世であることを切に願い祈ります。
最後に紹介しておきたいことがあります。出席者の身の安全のために具体的には明かせませんが、昨年九月に世界七カ国の紛争当事国の宗教指導者が東京都内某所に集まり三日間にわたって意見を交わしました。ロシア正教会とウクライナ正教会の代表も同席して、主張は完全にすれ違いでしたが、今後も話し合いを続けることを双方が認め、「命の神聖さを尊重する」等の共同声明を発表することができました。私は、開催国の宗教者を代表して、歓迎の挨拶とともに、「この会合が『問題解決の最終手段を殺戮行為に頼らない道』を模索する掛け替えのない一歩になりますように…」と、平和の祈りを捧げました。
世界の大和と、皆様のこの一年のご多幸とご安全を心からお祈りいたします。
※RSK山陽放送ラジオは、昭和二十八年(一九五三)に岡山市に開局し、以降毎年、元旦放送恒例の第一声として、五代宗和教主様の「新春を寿ぐ」とのご挨拶を放送してきました。同四十九年(一九七四)からは、六代様が同放送を受け継がれ、平成三十年(二〇一八)より現教主様に継承されました。