ありがとうなる
(元旦放送のRSK山陽放送ラジオ番組「新春を寿ぐ」※より)
教主 黒住宗道
新年あけましておめでとうございます。この一年の皆様のご多幸と、ご安全を心からお祈り申し上げます。海外での感染拡大や新変種のニュースに不安は尽きませんが、国内においては秋以降の突然のコロナ禍小康状態に「どこまで安心して良いのか…」と戸惑いながら、「本年が、晴れてコロナ明けの年になりますように…」と願い祈るばかりです。
さて、令和四年の「新春を寿ぐ」では、私たちが日ごろ大切にしている黒住教独自の言葉である「ありがとうなる」について、お話しします。
「ありがとうなる」とは、文字通り「ありがとう」に「なる」という意味で、一般的には「ありがたくなる」と表現されるべきかもしれませんが、私たちにとっては「ありがとうなる」と「ありがたくなる」では、ニュアンス(語感)がまるで違います。「有り難う」や「有り難うございます」また「有り難い!」に込められた、感動・感激性というか感情の熱量を伴う感謝の心を自ら養い拵える「ありがとう」の動詞形、それが「ありがとうなる」─ と申せば少しは理解していただけるでしょうか?
言葉の定義を解説しても、「ありがとうなる」わけではありませんから、具体的な話をします。
コロナ以外の昨年の最大の話題は、東京オリンピック・パラリンピックでした。コロナ禍真っ只中での開催に対する慎重論は当然で、今後の客観的な議論と精査による総括を待ちたいと思いますが、あれほど厳しい状況の下に最大限の対策を講じて挙行され、“無事”とは言えずとも、見事な大会として完遂できたことを、私は素直に喜び、競技者の皆さんをはじめ関係者各位の大変な努力に対して、何はさておき心からの感謝と労いと敬意を表したいと思います。
その上で、「この舞台に立てたことを、まず感謝したい…」と御礼の言葉から口を開く選手の多さに、「さもありなん…」と胸打たれました。まさに精密機械のように研ぎ澄まされたアスリートたちにとって、ピンポイントで照準を合わせてきた「二〇二○」が一年も延期された衝撃だけでも想像を絶するものですが、直前まで「開催されないかもしれない」という最悪事態を覚悟しながら、開催できた時にベストプレーができるように“全集中”してコンディションを再度整え直してきたに違いないのが、今回の代表選手たちです。さらに、いかに安全のためとは申せ、前例なき無観客開催をはじめとした異例だらけの制約下に身を置かされる一方で、心無い匿名によるネット上の批判に晒され続けた選手の皆さんでした。
目指す結果を得られた人も、残念ながらそうではなかった人も、今大会の代表選手ほど、自力ではどうにもならない諸々の外的要因に翻弄されながら、自力で何とかできる内的要因を鍛え上げて本番に臨んだアスリートはいなかったのではないかと思います。「普通の…」と言うと語弊がありますが、他の大会でしたら、笑顔の選手よりも悔し涙を流す選手にもらい泣きをしがちですが、今回は嬉し涙の選手からも熱い感動の涙をもらいました。思わず「有り難う…」と、テレビに向かって何度呟いたことでしょう。
開口一番発せられる感謝の言葉を聞きながら、「今大会の代表選手たちは、同じ『負けるわけにはいかない』という覚悟でも、他の大会とは“発信源”が少し違っていたのではないか…」と思いました。どういうことかと申しますと、一般的に「負けるわけにはいかない」は、「これだけ練習してきたんだから」とか「あれだけ期待されているんだから」と自分自身を奮い立たせる上で大切な心情ですが(同時に、プレッシャーの原因でもあるのでしょうが…)、今回、とりわけ良い結果を出せた選手たちの発言から、「開催にこぎつけてくれた人たちのためにも」とか「一緒に苦しんで支えてくれたあの人のためにも」といった、同じ「負けるわけにはいかない」でも、いわば“発信源の分母”が一回りも二回りも大きかったのではないかと感じたのです。「自分以外の存在のため」が加わると、発揮される力は確かに変わるものです。そして、「自分以外の存在のおかげで…」の思いが大きかったからこそ、最初の言葉が感謝だったと思うのです。
有り難くない境遇でも「ありがとうなる」ことは十分可能であり、それどころか、より強く熱い感謝の情念として体現されることを、今回の「東京二〇二〇」からも教えられました。「『ありがとうなる』とは、『…にもかかわらず感謝する』ことであり、『…だからこそ感謝する』こと」と、私は確信をもって申し上げたいと思います。
しばらく“オリパラロス”に見舞われましたが、オリパラから教えられたことまでロス(喪失)するわけにはいきません。まだまだ収束の兆しが見られないコロナ禍中にあって、ちょうど一年前の元日に、この番組で申し上げた「コロナ下なればこそ」を一層意識して、コロナ下にもかかわらず感謝して「ありがとうなって」いただきたく存じます。
早いもので、黒住教教主を拝命して五年目の正月を迎えました。最初の「新春を寿ぐ」で、私は「『有り難い!』をもっと身近に」と呼び掛けさせてもらいました。
「『嬉しい!』、『楽しい!』、『面白い!』、『素晴らしい!』、さらに『美味しい!』と同じように、いえ、それ以上に『有り難い!』が、もっと多くの人々の口からたびたび発せられる世の中であったら…と願います。(中略)誰かの、または何かの『おかげさまで…』の心が加わった『有り難い!』という歓喜と感激と感謝の言葉は、きっと自他ともに互いの心を豊かにしてくれると信じるからです」
毎年同じ話をしているつもりはありませんが、“根っこ”というか、申し上げたいことの根本は、すべて「感謝」です。深く広くじっくり考えれば考えるほど、何もかも「おかげさま」であり「有り難い!」です。英語の“Think”と“Thank”の語源は同じなのだそうで、洋の東西を問わず真理は一つであることを実感します。
まだ当分「用心」が欠かせない日々が続きますが、「コロナ下にもかかわらず感謝する」と「コロナ下だからこそ感謝する」の心で、「ありがとうなって」乗り切っていただきたいと念願します。
あらためて、皆様のこの一年のご多祥・ご多幸を心からお祈り申し上げます。
※RSK山陽放送ラジオは、昭和二十八年(一九五三)に岡山市に開局し、以降毎年、元旦放送恒例の第一声として、五代宗和教主様の「新春を寿ぐ」とのご挨拶を放送してきました。同四十九年(一九七四)からは、六代様が同放送を受け継がれ、平成三十年(二〇一八)より現教主様に継承されました。