令和の黒住教
教主 黒住宗道
令和元年6月号掲載
本誌二月号の「道ごころ」で本教にとっての今年という年について所信を述べましたが、「麗しい調和」を意味し「和を尊び重んじる」ことを旨とする「令和」の時代における黒住教について、教主の思いを綴らせていただきます。
一昨年秋の黒住教教主就任に際して発表いたしました「告諭」の冒頭に、私は「『まることの世界』の実現を目指して」という大きな願いを掲げました。この「まることの世 界」の何たるかを求めるところに、「令和」を生きる黒住教道づれ(学び徒)の道があると確信します。
教祖宗忠神が教え示して下さった「まること(丸事・○事)」とは、世の中(天地自然・森羅万象)は全て「まるい状態(調和)」と「まるいはたらき(循環)」の内にあるという意味の本教独自の教えです。たとえ、調和が崩れたり歪んだり凹んだりしても、また循環が切れたり遮られたり滞ったりしても、本来の元の姿に本復しようとする活力(天地生々の霊機:活物)で世の中は満たされていて、その源こそが一切を生かそう育もうとする天照大御神の御心(ご神徳・ご神慮)であることを、私たちは「まること」の教えを通して学ばせていただけます。この天照大御神の御心が人皆の心の神(ご分心)として鎮まっていると信じて生きることが黒住教を信仰するということで、“神の心”と“心の神”を貫く「誠」を尽くす“誠が道”=“誠の道”である「誠之道」が黒住教です。
いささか理屈が過ぎましたが、教祖神が説き明かされたこの「天地の理」に則って、生かされて生きている感謝の心で一切万物の親神たる天照大御神の弥栄(御開運)を祈り、ご一体の教祖宗忠神による一層のお守りとお導きを願うのが、私たちの祈願(祈念)です。
令和元年の元旦であった五月一日、厚い雲に一面を覆われた朝にもかかわらずお参りいただいた二百五十余名の方々とともにつとめた御日拝の後、私は斎主として「まること」の教えを説きました。大半が一般参拝者でしたが、小一時間前まで降り続いた雨の上がった喜びと、直接目に見てお迎えすることは叶わずとも確かに感じるお日の出直後の清々しくも厳かで霊妙な御陽気に包まれて、一同は感激と感謝の心で新たな時代の幕開けを実感しました。
「告諭」では、冒頭の願いに続いて、「奉祈人皆の心の神の御開運」という祈りと、「天照らす神の御徳を取り次ごう互いの誠を活かし合って」との呼び掛けを提示しました。
そもそも、天地に満ち渡る天照大御神のご神徳に包まれた「まること」の内に生かされている私たちです。一人ひとりが、自らに内在する“心の神=神の心”に目覚め、その尊きはたらき(ご神慮)がより活性化するように心掛けることで、開運しない人はいないのです。“個化”の著しい現代社会なればこそ、全ての人々にとって各々の人生が開運する道である黒住教が、今まで以上に必要とされていることは間違いありません。
いま手元に、明治十四年「宗忠神社内 朝陽堂」発行の「心の営養─黒住派諸先生講録─」という冊子があります。「岡山縣平民 箕浦云々」という編者の表記に百三十八年前という時代の古さを感じる一方で、「日々の営みを養う」という「営養」が用いられた書名から現代に通じる本教の普遍的な新しさを感じます。「此一冊子は教祖宗忠神の無形の養心法を無形の言葉以て授け給ひしを教子等の無形の霊魂に受け得て又受得し無形の言葉を書き記して…」という序文を読み進めるだけでも難解ですが、教祖神が教え示された「養心法」を諸先輩が講釈した内容であることは明らかです。
実は、この明治期の先輩方が堂々と掲げられた本教の大目標が「まることの世界建設」でした。人皆が天照大御神の分心をいただく神の子であることを自覚して生きることが、「天照らす神の御徳を世の人に残らず早く知らせたきもの」との教祖神の御聖願の達成に沿い奉る本教の使命と確信して示された「まることの世界」は、“個化”や“無縁社会”また“自分ファースト”や“モンスター○○”(今や死語かもしれませんが…)、さらには“拝金主義”等の加速する風潮により、心に悩みや苦しみを抱える人の多い現代社会にこそ必要な世界観であると信じます。私が、明治の頃の教勢とは比較にならない現状を知りながらも、「『まることの世界』の実現を目指して」と謳わせていただく所以です。
時代の要請を確信しながらも、過疎と高齢化、そして“個化”の進む今の世の中で、失ってはならない先祖代々の家族や親族の絆(地縁・血縁)が脆弱になり、本教の直面する現実は非常に厳しいものがあります。大きな課題・難題を抱えて迎えた令和の時代と申し上げざるを得ません。「敬神崇祖」という伝統精神を真正面から訴えながら、個人の幸福をもたらす本教の魅力を、お道づれ(学び徒)一人ひとりが自ら発信者になって、広く世の人々に取り次ぐ“布教意欲”をもっていただかなければなりません。
即効薬や特効薬などありませんが、心掛けるべきは「知らせること」と「ともに参ること」です。「告諭」とセットで発表しました「示達」を通して呼び掛けた「さあ参ろう!人が人よぶ参世紀」に、本気で取り組んでいただきたいと切望します。
「知らせること」という点で、私は新しい時代を迎えて何か新しいことを始めようと思い立ち、「ツイッター(Twitter)」を教主としての日々の発信ツールに加えました。ホーム ページや電子メールやラインやフェイスブック等、現代のインターネット環境を使った情報伝達に関しては、教団として、また個人として、それなりに取り組んで“便利さ”という文明の利器の恩恵に与っていますが、教主の独り言の呟きが押し付けがましくなく配信されるツイッターによって、誰かの心に日の光を届けるきっかけ(端緒)になればと願っています。平安時代に「土佐日記」を著した紀貫之ではありませんが、「米国大統領もすなるツイッターといふものを、教主もしてみむとてするなり…※」の心境です。セキュリティー(安全)対策には配慮していますので、「黒住教主」で検索してみて下さい。
最後に、先月紹介させていただいた御神詠と重複しますが、「令和の黒住教」の礎となる「まること」の教えの主なものを列記しておきます。
天照らす神の御徳は天つちにみちてかけなき恵みなるかな (御文八五号)
天照らす神の御徳は限りなし受くる心に限りなければ (伝御神詠)
世の中はみな丸事のうちなればともに祈らんもとの心を (御歌二〇二号)
まるき中に丸き心をもつ人はかぎりしられぬ○き中なり (御文一三六号)
誠ほど世にありがたきものはなし誠一つで四海兄弟 (御文一四一号)
誠の本体は天照大御神の御心なり (御文一四五号)
誠は丸事にてすぐに一心一体なり (御文一四五号)
わが本心は天照大御神の分心なれば
心の神を大事につかまつり候えばこれぞまことの心なり (御文一四七号)
※「土佐日記」冒頭の原文は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」。