毎朝が初日の出
教主 黒住宗道

平成31年3月号掲載

 皆様ご承知いただいていますように、神道山の一日は毎朝の御日拝から始まります。教主として祈りを司(つかさど)る先達を専(もっぱ)らつとめるようになってからは、刻一刻と変化する早朝の神気・霊気をより一層敏感に全身で感じられるようになり、日ごと日ごとの有り難さを以前に増して深く実感させていただいています。

 寒(かん)が明けてからは一日一分単位で早くなっていますが、教主公邸を出立する“日の出時刻の20分前”は、すでに結構明るくなっているものの、たまに早起きの鳥たちが「チチチ…」と目覚めを告げるくらいで、まだ辺りは夜明け前の静寂に包まれています。随行者に出迎えてもらって、私は心の中でお祓い(大祓詞(おおはらえのことば))を繰り返し唱えながら日拝どころに向かいます。

 夜の灯(あか)りが残る岡山市街を見下ろす日拝壇から東に向かうと、早春の今の時節は遥(はる)か東南の辺りが一際(ひときわ)明るくなっていて、15分+α(プラスアルファ)後の日の出の場所を明示してくれています。「+α」と記したのは、その日の日の出の場所の山の高さと雲の状態により、一日として同じ時刻に同じ御来光を拝することはないからです。禊祓詞(みそぎはらえのことば)・大祓詞を唱え始める頃、目を覚ました鳥たちが幾らか増えていることは感じられますが、まだ「シン…」とした静けさの中、私たちのお祓いの声だけが響きます。

 朝の気配が一変するのは、祝詞(のりと)奏上の後の、御陽気修行を始めた頃、すなわち日の出の時刻のほんの数分前からです。鳥たちが一斉にさえずり始め、羽ばたきの音とともに勢いよく飛び交う姿を見せてくれます。静から動へ、周囲の気配が明らかに変わったことを感じる頃、大教殿の大太鼓が響き渡る中、神々しい旭日を拝させていただけます。厚い雲に遮られて昇る朝日の御(み)姿を目(ま)の当たりにできない日も当然ありますが、よほどの豪雨の朝以外は、気配の変化が有り難いお日の出の時を知らせてくれるのです。

 「鳥たちも、手ならぬ翼を合わせて日拝をしているのかも…」は冗談として、「暗い所で見えにくいことを“鳥目(とりめ)”というくらいだから、鳥たちは明るさに反応しているのだろう…」と勝手に思っていましたが、詳しい方から教えていただいた知識により、より一層御日拝の有り難さを実感できるようになりました。その知識というのは、「夜明け前の薄暗い状態から徐々に光量(明るさ)が増して、日の出前の然(しか)るべき時(確かな時間を示すデータもあるようです)に、山の草木をはじめとした植物たちが一斉に光合成を開始して酸素の大量生産を始める」という事実でした。「野生の生き物たちは明るさというより、出来たてホヤホヤの新鮮な酸素に敏感に反応している」ことを知り、「数年前に流行(はや)った“KY(空気が読めない)”のは我々人間(現代人)だったか…」と自嘲したことです。

 御陽気修行は、黒住教立教の瞬間である教祖宗忠神の「天命直授(てんめいじきじゅ)」を手本としてつとめる御日拝の中心ですが、御陽光を呑(の)み込む便宜(びんぎ、ついで)に体内に取り込まれるのが出来たての新鮮な酸素であることを知って、一口一口の御陽気がさらに美味(おい)しく有り難くいただけるようになりました。「御陽気をいただきて下腹に納め、天地と共に気を養い、面白く、楽しく、心にたるみ無きように、一心が活(い)きると人も活きるなり」との「道の理(ことわり)」に示された御教えを深く心に刻みながら、病み悩み苦しむ人々の元気喚起と本復成就を祈念してつとめるのが私の御陽気修行です。

 先月10日の御日拝は、まさに有ること難い珍しいお日の出でした。遠山の上空に厚い雲が横たわり、「御姿に見(まみ)えるまでの間、お祓いを二本上げた方が良いだろうか…」と一瞬迷ったものの、時間をかけて御陽気をたっぷりいただくことを優先して、普段通りに大祓詞を一本唱えてから謹んで祝詞を奏上し、御陽気修行を始めて間もなく、遮られているはずの雲の中から、しかも山の端から一条の眩(まばゆ)い御陽光が差し込んで来て、参拝者一同慌てて二拍手を打ったのでした。ほんの数秒の出来事でしたが、肉眼では一面を覆っているとしか見えなかった雲の隙間から拝した旭日でした。驚きと有り難さで、鳥のさえずりにも気配の変化にも気付くことなく、その日の御日拝を終えました。

 この日は、午前10時から大教殿の御神前で大祓詞二本と祝詞の奏上の後、先達が高座に上がって御訓誡捧読(ごくんかいほうどく)と説教を行う御会日(ごかいじつ)でした。教祖神ご在世当時からの「御会日」(宗忠様にお会いできる日)の伝統が大教殿では毎週日曜日に踏襲されていて、出張時以外は私が先達をつとめているのです。二本唱えたお祓いの最中にふと思い起こしたのが、この朝の眩い御陽光でした。「あの御光が我が心の神として下腹の奥深くに鎮まっている…」と思った途端に、数年ぶりの感覚に見舞われました。臍(へそ)下数センチの辺りの肚(はら)の奥がカッと熱くなってジンジンしてきたのです。あまりにも有り難くていつの間にか涙が出てきて、祝詞奏上後のお取り次ぎ(祈り込み)の際に、据え置き御祈念(禁厭(きんえん))を濡らさないように顔を遠ざけて御陽気を吹き掛けたほどでした。高座に上がって御訓誡捧読の後につとめた説教は、予定していた話題どころではなくなり、ただただ有り難い今の心境をそのまま吐露したことです。

 「数年ぶりの感覚」と記しましたが、実は同じような感激を今まで数度味わったことがあるのです。初めての経験は20年ほど前のことでした。教主様(当時)から、それまでにも何度か聞かせていただいていた「昭和52年2月末の御日拝」の尊いご体験(極寒の中、山の端からお日の出を迎えた瞬間に確信された「ご分心」のご存在。最近の掲載は、六代様著「道ごころ 第七集」十六頁)の話を御親教で拝聴した翌日の朝拝(午前九時の始業の拝礼)の祖霊殿ご拝の告辞中に、前日の話の御日拝を想像しながらその日の有り難いお日の出を思い起こした途端、平伏(深い御辞儀)ができないほど下腹が熱くなり、腹を凹(へこ)ませて少し猫背になって凌(しの)いだことがあるのです。この体験は、その日の午前中に行った専修科(神道山での百日修行)の講義で話したので、記憶している当時の学生さんもいらっしゃるかもしれません。手帳に記したので探せば日付も分かるはずですが、実は昼頃には収まってしまい、以来、何度同じイメージを繰り返しても下腹がカッと熱くなってジンジンするようなことはありませんでした。それ以降に二度か三度、似たような熱さを実感したものの、お日の出を思い起こすだけで自在に味わえるほど簡単なことではありませんでした。

 教主を拝命してからは、特に下腹を意識して御陽気をいただいて有り難いお日の出を拝していますが、なかなかカッとしてジンジンする熱さには至らなかった「あの感覚」を、予期せぬお日の出を拝んだ先月10日に久々に、しかも教主として初めて体感できたことが嬉(うれ)しくて有り難くて、初めて活字に表させていただきました。

 「毎朝毎朝、生まれかわった心地で日拝をせよ」との御教えを原点に、人皆の心の神たる「ご分心」を確信して、ますます祈りの誠を尽くしてまいります。昇る太陽は同じですが、一日として同じ日の出はありません。毎朝が、その日だけの初日の出です。“お日の出の郷(さと)・神道山”で、ともにおかげをいただきましょう!