吉備の中山・神道山
 ─お日の出の郷からの祈り─
教主 黒住宗道

平成30年5月号掲載

 本誌先月号で報道されましたように、去る2月15日に私は教主就任の奉告のため、備前国一宮(いちのみや)である吉備津彦神社と備中国一宮の吉備津神社、そして両神社の御祭神である大吉備津彦命(みこと)の御陵とされる宮内庁管轄の中山茶臼山(ちゃうすやま)古墳御前に参拝しました。正式参拝させていただいた後、吉備津彦神社では守分清身宮司と、そして吉備津神社では藤井崇行宮司と、しばらく懇談の機会も得たのですが、「吉備の中山」という太古からの尊きご神域において黒住教教主として祈りを捧(ささ)げさせていただく身の有り難さと使命・責任の大なるところを、あらためて心に刻むことができました。

 古代吉備国が大和朝廷成立以前にいかに強大な力を有していたかは、後の時代に備前・備中・備後・美作に四分割されていることからも伺えますが、その中心である「吉備の中山」が中央で備前国と備中国に分断された結果、いわば国境を挟んで隣同士に鎮座するのが両国の一宮である吉備津彦神社と吉備津神社です。ちなみに、備後国一宮は吉備津神社、美作国一宮は中山神社で、いずれも御祭神は大吉備津彦命です。また、わが国最初の勅撰(ちょくせん)和歌集である「古今和歌集」に、「まかねふく吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」という詠み人知らずの歌が納められているように、古来「吉備の中山」は古代吉備国の信仰と文化の中心でした。

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 その重要な神奈備山(かんなびやま、神の鎮まる山)の東南の最高の丘陵地域、いつの頃からか地元の人々から「神道山」と敬称されてきた聖なる地に、よくぞ一宗教法人である黒住教の大教殿が遷座できたと、考えれば考えるほど驚きと感動が込み上げてきます。神道山へのご遷座が決定した後に、地元尾上地域の長老から伺った「宗忠様が尾上の御講席にお越しになった際に、私たちの先祖がお願いして『神道山』と名付けていただいた、と代々聞かされてきました」という、私たちにとってこの上なく有り難いエピソードを歴史的に証明する術(すべ)はありませんが、尾上の集落から少し山に入った墓地の入り口に「神道山表並銘 昭和十乙亥」と刻まれた石碑が物語っているように、「神道山」が大教殿ご遷座の遙(はる)か以前からの名称であることは間違いありません。

 つい一カ月ほど前の出来事ですが、地元有志で活動する「吉備の中山を守る会」からの依頼を受けて、本部境内地に岡山市による「中山茶臼山古墳案内板」を設置することを許可して、先日小さな看板が出来上がっていました。境界線ギリギリの境内地の四十㎠ほどの場所を使っていただくだけですが、地権者の構造が複雑で、行政の進める仕事にもかかわらず一向に捗(はかど)らず、本教への依頼があったのでした。今の時代でもこの状態という現実を知って、昭和44年(1969)、当時157戸の地権者の方々が所有していた約10万坪(30万㎡余)という広大な土地の入手、しかも行政区域が御津(みつ)郡一宮町尾上(当時は岡山市外)と岡山市花尻また吉備町花尻との三地域にまたがり、いよいよ計画の進み出した瀬戸大橋建設に向けて岡山市の土地価格だけが高騰を始めた中での土地購入という大変困難な作業が、六代様をはじめとした諸先輩方の大変なご苦労があったからとは申せ、トラブル一つなく実現できた奇跡的な“おかげ”に、ただただ感動と感謝しかありません。

 五代様が「まるで、私たちのために取ってあったようだ…」と仰(おっ)しゃった「神道山」に、六代様が初めて足を踏み入れたその日に、「右花尻 左尾上大元」と刻まれた道標(みちしるべ)を、現在の黒住教本庁舎の建つ場所から少し南(車道になっている辺り)の山道脇に見つけられるのです(現在は黒住教学院への登り階段の脇に移設されています)。初めての「神道山」で目にされた「大元」の文字。しかも、「大元」という呼称は、教祖宗忠神ご神去(かんざ)り直後から3年間にわたって行われた「高弟七人衆による決死の大布教」の満願御礼参宮として嘉永6年(1853)に挙行された「伊勢千人参り」の際に、岡本京左衛門大人(うし、先生)から命懸けの説教を聴いた外宮(げくう)神官で国学者の足代弘訓(あじろひろのり)師の「神道の大元はここ伊勢だが、神道の教えの大元は備前の中野にあり」とのお言葉が端緒ですから、きっと明治の時代になってから設置された道標です。明治18年(1885)の宗忠神社建立の頃から一層盛んになった“大元詣で”、特に岡山県西北部や山陰地方から霊地大元を目指す参拝者一行にとっての最後の峠が「吉備の中山・神道山」だったのでした。

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 まさにご神慮以外に考えられない尊き事実の数々に、実は新たな感動の発見が加わりました。教主継承まで半年という昨年の3月、私は日本の古代史研究の中であらためて注目されている楯築(たてつき)遺跡を初めて訪れました。正月のテレビ(BS2)の特別番組で「邪馬台国は吉備国のことだったかもしれない…」という学説の根拠として紹介されたのが楯築遺跡で、纏向(まきむく)・箸墓(はしはか)遺跡という日本古代史上とても重要な遺跡に大きな影響を及ぼしていることが分かってきたというのです。初めて訪ねた楯築遺跡は、神道山の真西約3.5㎞という“ご近所”でした。祈りが捧げられたと思われる幾つもの巨石が円状に建てられた(ストーンサークル)墳墓は、建築当時としては他に類を見ない圧倒的な大きさで、後の時代の前方後円墳の原型であることも指摘されていました。ストーンサークルの中央に立って東を見た景色は樹林に遮(さえぎ)られていましたが、林を真っ直ぐ抜けると目の前に「吉備の中山」が“日出(いず)る山”として横たわっていました。真東の方向が「吉備の中山」の南の山、すなわち「神道山」の方角であると気づいた私は、スマートフォンを使って現在地を地図で調べて仰天しました。なんと、北緯34度39分49秒という1万分の1度のずれもない同一直線上の真東に存在していたのが、神道山の日拝どころだったのです。ここが邪馬台国の中心で昔むかし卑弥呼がここで日の出を拝んでいたかどうかは分かりませんが、いずれにしても古代吉備国の王(または女王?)たる御方が祈りを捧げた場所の真東、すなわち春分と秋分の旭日が御姿を現される地点で、日々欠かすことなく私たちは御日拝をつとめさせていただいていることに、この上ない感動を覚えました。

 教主就任の年に、神道山での御日拝の有り難さを一際強く熱く実感させていただけたご神慮に感謝しかありません。掛け替えのない「吉備の中山・神道山」という“お日の出の郷”から、教主として日々新たな心で世界の大和(たいわ)と万民(ばんみん)の和楽(わらく)を祈らせていただきます。

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 教主継承式の日に発表した「示達」で掲げましたように、西暦2024年の神道山ご遷座五十年までに神道山への総参りを励行し、ご遷座五十年記念祝祭には、「あの神道山に、また参ろう!」と誘(いざな)っていただけるよう、ともに活(い)かし合って取り次いでまいりましょう。