「旭川荘と私」
―山陽新聞社会事業団創立70周年記念講演(要旨)

平成29年8月号掲載

 社会福祉法人山陽新聞社会事業団は、昭和23年(1948)に発足し、以来、社会福祉事業に取り組んできました。教主様は、平成9年(1997)よりその理事をお務めです。6月15日、事業団の創立70周年の記念式典が山陽新聞社さん太ホールで開催され、理事長で山陽新聞社社長の松田正己氏から感謝状が、教主様と川﨑明德川崎学園学園長等に手渡されました。その後、教主様と事業団専務理事の阪本文雄氏による記念講演がなされました。

 その教主様のご講演の要旨が、山陽新聞7月16日付朝刊に「『人に尽くして人となる』実体験で学んだ。」というタイトルのもとに、前文「全国に先駆け、医療と福祉が一体となって障害者を支えてきた社会福祉法人旭川荘(岡山市北区祇園)と共に歩み、先頭に立って支援を続けてきた黒住教主の講演要旨を紹介する。」を添えて掲載されました。

 今号の「道ごころ」は、教主様の講演要旨を紹介させていただきます。(編集部)

 山陽新聞社会事業団の70周年記念の式典が行われましたきょうの佳(よ)き日に、記念講演をということで、まことに光栄に思っております。

 きょう私は、「旭川荘と私」と題させていただいておりますが、申し上げるまでもなく、岡山県民にとりまして、旭川荘の働き、その存在は、大きな誇りであります。

 実は、こういう題名を付けましたのも、私には、先代の教主である父が旭川荘の創設者であります川﨑祐宣(すけのぶ)先生とごく親しくしていただいていたことから、先生は子供時分から見上げるような存在でした。昨年の暮、12月1日から活動が始まりました、旧深柢(しんてい)小学校の跡地にできました川崎医科大学総合医療センター、旧川崎病院を開院されたのが、昭和14年(1939)ですが、それ以来、川﨑祐宣先生は「昼夜診療、年中無休。病院には盆も正月もない、いつでも受け入れる。いつでも治療する」。これを自らに課し、世に公言して、自ら外科医としてメスを執り続けること40年近く「患者のための医者、患者のための病院」を貫かれました。

 そういう中で、川﨑先生の手に負えない患者さんがありました。それが障がいをもった、とりわけ重い障がいをもった人々でした。そういう人たちを目の当たりにして、何もできない自分を叱りつけるような思いであったのが川﨑祐宣という方だったと思います。

 まだ終戦間もない瓦礫(がれき)が残る岡山の街の中で、今日(こんにち)の旭川荘創立を高々と掲げられたわけであります。

 昭和31年に国の認可を受け、ちょうど60年前の昭和32年に旭川荘は、今でいう知的障がいの人々のための旭川学園と、身体障がいの人々のための旭川療育園、そして親御さんが病気あるいはいろいろな都合で育てられない乳児を預かり育てる乳児院、この3つの施設から、スタートしました。

 今日、この旭川荘は、最初の3つから86の施設、利用者が2400~2500人、職員が2000人余。ひとつの町といってもよい姿になりました。

 ところで昭和39年、1回目の東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。上京した私は、オリンピックは観(み)ることができませんでしたが、パラリンピックの車椅子バスケットボールを観ることができました。障がいをもった人たちが、それに挫(くじ)けず、逆にそれをバネにして生きているすごさに本当に感服いたしました。帰りまして、父に話しましたら、「障がいをもった人に対する関心をもつことは、宗教者となるお前としてはよいことだ。是非、旭川荘に江草先生を訪ねろ」ということで、早速電話してくれました。一人の身で、目も見えない、物も言えない、噛(か)むこともできない、手足も動かない、寝返りも打てない、そういうお子さんが全国に3万人からいる。「何とかしようではないか」。幸い信者というよりも友人のような若い仲間が次々といて、何か役に立つことをやろうではないか、という声が出ていた矢先でしたから、何も分からないままに江草安彦先生の一言をそのまま鵜呑(うの)みにして、「中四国を対象に重症心身障がい児の施設を造ろう」という大きな看板を掲げてしまいました。

 そういう中で、3人のお母さんが手を上げて下さったのです。今は真庭市になった県北勝山の森脇さん、今は岡山市になった旧上道町の礪波(となみ)さん。きょうこのホールに来ていらっしゃる、今は瀬戸内市になった邑久町の山根さんでした。この3人のお母さんが、わが子の生活ぶりを写真や映画にご自由にお撮り下さいと仰(おっ)しゃって下さいました。この3人のお母さんの勇気が今日の旭川児童院を造ったのです。

 中・四国の青年たちは、映画を各地で上映し、更に各県の映画館でも上映してもらい、また日曜祭日毎(ごと)に街頭募金をしながら、一方で皆さまからお金を出してもらうだけではいけないと、自分たちで進んで田植えなどして働いて献金してくれました。おかげで半年と区切った昭和40年の4月から9月の末までで集まった約一千万円近くのお金を、当時の加藤武徳知事に渡すことができました。

 その年の8月に山陽新聞の社告を打って、「重症心身障がい児、この子たちに愛の手を」との半年間のキャンペーンは、凄(すさ)まじいばかりの動きでありました。昭和42年5月、旭川荘の中に旭川児童院が県民立、市民立のような形で生まれました。

 その日川﨑祐宣先生に、森脇さんはじめ、礪波さん、山根さんを紹介しました折、川﨑先生が「よくぞお子さん方を世の中に出して下さった」と言われた時に、3人のお母さんが異口同音に同じことを言われました。「この度は有り難うございました。初めてわが子が人様のためにお役に立つことができました」。私は側(そば)で聞いていて、なんと親心は深いものかと思いました。わが子が寝たままで人様にお世話になることはあっても、何も役に立たない。それが、ありのままの姿を写真や映画に撮られることによって多くの方々が理解して下さり、そして、多額の浄財を捧(ささ)げて下さった。同じように病み苦しむ人のために、わが子が役に立つことができた。それを川﨑先生にお礼を言う3人のお母さんでありました。

 有り難いことは、旭川荘には、県民市民の、いや他県からもボランティアが多いことです。一人として〝してやった〟という思いを持つ人はいません。〝させていただく〟という、まさに奉仕、仕え奉る姿で、今に一万人前後のボランティアの方が毎年駆け付けて下さいます。そして私ども、20代の青年期にあれほどの尊い仕事をさせてもらい、「人は人に尽くして人となる」を実体験させていただいたことを、この3人のお母さんに会う度にお礼を言ってきました。「あなた方のおかげで私どもは素晴らしい青年時代を持つことができた。そして、あなた方のおかげで旭川児童院は出来上がったのです」。この大元を常に忘れてはならないと思っております。