やきものは祈りである

平成29年6月号掲載

 テレビの「開運!なんでも鑑定団」で有名な中島誠之助氏は、その著書の中で、「日本陶磁協会の機関誌である『陶説』は、陶磁器界のアカデミックな専門誌で、しかもいい加減で信憑性(しんぴょうせい)のない論文や宣伝臭のある記事は排除している出版物」と紹介しています。

 教主様は、この陶説に「現代備前の旗手―隠﨑隆一氏」(平成27年9月号―「日新」転載同年11月号)、また「陶芸家に教えられて支えられての歳月」(平成28年8月号―「日新」転載同年10月号)と題して一文を寄せられました。

 この公益社団法人日本陶磁協会の常任理事森孝一氏から、教主様に一通の封書が届きました。「当協会では、やきものをより親しんでいただける誌面作りを目指して、この5月号より新企画『あの人に会いたい』をスタートします。つきましては、黒住様にインタビューをお願いできないかと思っております。黒住様の後、ノーベル賞の大村智様、歌舞伎役者の中村時蔵様にインタビューする予定です。何卒、よろしくお願いいたします」。

 去る3月初めに来岡した森氏は、神道山教主公邸で教主様にインタビューされました。
 その記事が「陶説」5月号に掲載されましたので、同協会のお許しを得て、今月の「道ごころ」と次号の誌面に転載させていただきます。(編集部)

 本日は新しい連載企画「あの人に会いたい」の第一回です。この企画では、やきものの専門家以外の方にいろいろとお話を伺いながら、新たな視点からやきものの楽しさ、面白さをお伝え出来ればと思っています。

 第一回のゲストは、黒住教第六代教主である黒住宗晴様です。黒住様は芸術・文化に大変造詣が深く、備前焼の金重陶陽(かねしげとうよう)氏、藤原啓(けい)氏、藤原建(けん)氏、美濃焼の荒川豊蔵氏、走泥社(そうでいしゃ)の鈴木治(おさむ)氏等と大変親しく交流されました。

 私と黒住様の出会いは、伊藤慶二氏について書かれた教主様の文章を「伊藤慶二展」図録(岐阜県現代陶芸美術館刊 2013年)で拝読して、大変感動したことに始まります。もしその文章と出会っていなければ、恐らく教主様とのこうしたご縁もなかったのではないかと思います。伊藤慶二氏は、このたび日本陶磁協会賞金賞を受賞されました。伊藤氏は、自らをあまりアピールされる方ではないので、広く世間に知られた陶芸家ではありませんが、しかし、その作品は素晴らしく、熱烈なファンがおられます。ご本人を前に大変失礼な言い方なんですが、伊藤氏に「本当に教主様がお書きになったのですか」と聞きましたら、「ちゃんと、ご本人が書かれています」と(笑)。いろいろな方が伊藤氏のことを書いておられますが、あそこまで深く書かれた方を私は知りません。

黒住 ご注目いただいてありがとうございます。拙著『美の心に学ぶ―芸術家がたとの交流』(黒住教日新社刊 平成28年)にも、恥ずかしながら書かせていただきました。

一、伊藤慶二氏の作品について

 私も時々、教主様の御言葉を引用させていただくのですが、「伊藤の作品には、私の内部に太古の信仰を呼びもどす不思議な力があった。土に神を見、水の神に頭を垂れる信仰である。大いなる存在に対する謙虚さを呼びおこし、大宇宙の前には小さな存在にすぎない人間であることを気づかせる作品群であった。そこには現代の人間の傲慢さもぎらぎらした欲望も消えうせていた。これこそ宗教である。彼にとって作陶活動は祈りであり、それは自らのよって立つ基を確かにする道なのである」(『美の心に学ぶ』以下、同書より引用)という、この力強い一文はとても衝撃的でした。伊藤氏の作品を見て、あそこまで深く読み取ることが出来るのは、やはり教主様のような聖地に住む求道者でないと無理ではないか、と思いました。

黒住 伊藤さんは宗派宗教の枠に関係なく、この人は本当に祈りながら土を練り、祈りながら成形しておられるなと第一印象で思いました。やきものは後世に残る芸術ですから、その時代がそのまま出ている。作った人の気持ちがこもる。だから、やきものから教えられることはいっぱいあるような気がします。

二、縄文文化と弥生文化

黒住 同じ拙著に収録した鈴木治先生との対談で縄文土器について語り合っていますが、あの対談は昭和54年でしたから、まだ縄文といえば火焔(かえん)土器しか知らなかったのです。でもその後、青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡とか、どんどん縄文の遺跡が発掘されました。鈴木先生は削って削っていくという姿勢の方でしたから、どちらかというと弥生的です。

 じつは私の祖母、曽祖母は出雲大社の出なんです。大社の建築については、2000年に巨大御柱(おんばしら)の岩根が出土しました。古代の出雲大社は天に聳(そび)えるような大きな神殿であったと主張していた早稲田の先生の説を証明するような根っこが出てきた。それから三内丸山遺跡が出た。すごくたくましい時代を生きたのが、縄文の人々だったのではないか。私は、出雲大社は縄文の記憶が残った地だと勝手に思っているんです。

 そして、繊細な「仮面の女神」やおなかの大きな「縄文のヴィーナス」ですか。ああいう、生命に対する不思議な、敬虔な思いを持っていたのが縄文の人たちです。神様という言葉があったかどうかは定かではありませんが、神と一体になった生活をしていたのではないか。だが、生活は非常に厳しかったと思いますね。

 寿命はかなり短かったようですが、研究者の報告によれば体格は大きかったようです。教主様がおっしゃるように、出雲大社の古代の社は天を指して延びていますね。あの巨大御柱の岩根は、まさに縄文的です。

黒住 その出雲大社の根っこが、縄文一万年後に花咲いた。

 諏訪大社の御柱祭りは縄文の祭りだと言われています。とてもエネルギッシュな祭りで、神と人とが一体になって執り行う神事です。縄文は一万年続きましたが、弥生は600年ですから、この差は大きいですね。

黒住 弥生のたくましさというのは、お母さんが赤ちゃんを抱いてどっしりと座っているような、女性の腹の据わったような、そんな感じを持ちますね。

 教主様の文章に「北アフリカのある地方における焼物づくりは、今もすべて女性の手によってなされているという。そこには男性は一歩たりとも足を踏み入れられないし、のぞき見ることすら禁じられているのである。それは、焼物をつくることは大地から土という生命あるものを採って、新たな生命を生み出す秘義であり、生命のあるものを生み出す力を持つ女性だけに許された神業とみる宗教的理由によるものである」(『美の心に学ぶ』)とありますが、まさに縄文と重なります。それが弥生にも繋がっているわけですね。

黒住 私は、縄文も弥生もやきものは女性の仕事だったのではないかと思っています。現代でもそうですが、我々の黒住教でもメンバーは圧倒的に女性が多い。お母さんは十月十日(とつきとおか)、しかもお宮さんに日が止まるから「ひと」なんです(かつて、出雲では妊娠することを「お宮さんに日が止まる」といった。日とは御霊をいう)。あなた方、子供のお宮さんを体内に持っているんだよ。

 神様に「御」を付けて「おかみさん」。この二つを結びつけて時々面白く話すのですが、本当に「元始、女性は太陽であった」と思います。それは今も変わらない。しかし、女性は増えたけれどお袋さんと呼ばれる女性は少なくなった。時代ですかね。

(つづく)