寄稿二題
平成28年6月号掲載本誌4月号既報の通り、教主様におかれましては、3月7日、岡山市・常住寺(天台宗)において葉上照澄師の顕彰碑除幕式をおつとめになりました。その碑文は事前に依頼を受けて教主様が綴られたものです。また、教主様は、岡山県立岡山西支援学校の教育後援会長をお務めですが、同校の創立40年に当たり、一文を寄せられました。 今月の「道ごころ」は、この2つの御文を紹介いたします。(編集部)
宗教界・真の大先達 葉上照澄大阿闍梨
かつて岡山城の一角にあった岡山一中に同じ頃に学んだ誼で、後輩の父五代教主は葉上先生にじっ懇にしていただき、先生は私にも何かと目をかけて下さっていました。
先生は、この常住寺に住んで通われた岡山一中から六高、東大と典型的な秀才コースを歩みながらも、幅広く文芸の世界にも通じておられ、さらには青春のさ中に花開いたロマンスは、菊池寛の小説「心の日月」のモデルにもなるような純粋なものでした。東大で学んだドイツ哲学を元に、大正大学の教壇に立たれる中での新婚生活も束の間、この「心の日月」の夫人が病没され、その悲しみは小学生の時に得度されていた仏道に一層歩を進めさせたようです。仏教学を極めるべく努めながらも、独り住まいの年を重ねたお母様のことを案じて郷里岡山に帰って合同新聞(現山陽新聞)に入り、論説委員としておつとめの中に終戦を迎えられました。
わが国未曽有の混乱の終戦直後、先生は静かに比叡山に入られました。日本の再興のためには、まず自らを鍛えなおすとのお思いからでした。ほどなく、白麻装束に懐剣を身に帯しての(挫折した時の自決用)千日回峰というこの上ない苛酷な修行に入られました。その間、9日間の不眠不休不臥、断食断水という死の渕に立って祈り続ける時もある回峰行でした。悲愴感さえ漂うこの修行にもかかわらず、“大廻”と言われる京都市内外を1日で巡り続ける時など、先生はご自身を「動くお地蔵さん」とユーモラスに称されていたとのことです。それは4万キロにも及ぶ長丁場でした。加えて更に1000日間ずつの別の修行を2回重ね、計3000日の修行を終えられた先生の為すべきことは、ひたすらの世界平和への献身でした。
懸命のご活動の中でエジプトのサダト大統領と肝胆相照らす仲になり、それはシナイ半島のシナイ山で初めてのユダヤ教、キリスト教、イスラム教の代表者による共同礼拝式典につながりました。数々の日本人宗教者もいざなって中東和平に尽くされながら、世界連邦日本宗教委員会を創立して世の宗教者の目を世界に向ける機会をつくり、さらに世界宗教者平和会議日本委員会と共同して比叡山宗教サミットも創設されました。
一方、比叡山高校の校長を20年余り勤めて若い人々を育てるとともに、仏教誕生のインドに仏教の再興を願い祈って釈迦成道の聖地ブッダガヤに日本寺を建立して初代竺主になり、また請われて宗派の異なる高山寺の住職に就任して明恵上人の顕彰に努められました。さらには「スポーツは道徳教育」とのお考えから、大正大学時代に創部されたカヌー部の縁でミュンヘンオリンピックにカヌーの総監督で行かれるなど、その活動は多岐に亘りまさに席の暖まる間もない日々でした。
私が一人の宗教者として、初めて先生に同行させてもらったのはシンガポールにおけるアジア宗教者平和会議(1976)でした。当地の日本人墓地にご案内しました時、先生が日本軍人の墓前に額ずいて発せられた「くやしかったろう!」との、腹の底から絞り出すようなお声は忘れることができません。それは、終戦直後、新聞記者として臨まれたミズリー号上での降伏文書調印式で、もしマッカーサー(連合国最高司令官)が傲岸不遜ならば、体当たりして共に海に沈もうと本気で思われていたこと–ご本人曰く「私の内なる極狂」–にも通じる一言でした。このような一人の人間としてさらに日本人としてのたぎるような熱情、その上に立っての平和活動なればこそ、それは命懸けて、体を張っての真剣勝負であったと感じ入り、心から敬服することです。
なお、私の学生時代の共に汗した体育会の後輩で、高校生のときから葉上先生に20年ほどご薫陶いただいた男の心に残っている先生のお言葉は、「いつも母親のことを想え」であることを申し添えさせていただきます。
西支援学校 創立40年に想う
平成5年(1993)6月、今では世界的な存在となったヴァイオリニスト五嶋みどりさんをご案内して、旭川荘を訪ねました。知的障がい児施設旭川学園で生活する人たちに、本物の音楽にふれてもらおうと、当時の理事長江草安彦先生の要望でした。恥ずかしながら私も含めて、旭川荘の多くの職員方には、クラシック音楽の生の演奏を子供たちが静かに聴くだろうかという不安がありました。大丈夫ですと言い切っていたのは、五嶋さんその人と江草先生でした。私たちの懸念は全くの杞憂に終わりました。100名近い入所者方は、ほぼ1時間近くに及んだ演奏中、物音ひとつ立てない静寂の中で、五嶋みどりさんのヴァイオリンの世界にひたっていました。そして、演奏が終わりますと、一人、二人と拍手をしはじめ、それはほどなく全員そろっての大拍手となりました。みどりさんの感動の面持ち、今は亡き江草先生の喜びの表情が今もまぶたの裏に焼きついています。
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昭和40年(1965)、旭川荘の旭川児童院と称される重症心身障がい児のための施設づくりにつとめたことから、私は旭川荘とは久しくご縁をいただいています。
かつて旭川荘で開催された役員会のあと、三々五々に分かれて各施設を見学することになりました。私は重障児施設旭川児童院を選び、3・4名の方と職員に案内されて各所をまわりました。その折、ひとつのいわば病室に掛けられた名札に、かつての施設づくり運動の時に、写真にまた映画に登場してくれたSさんの名前を見つけて部屋に入り声をかけました。その時、すでに50歳を超えていた彼女ですが、声をかけてももちろん何の反応もありません。彼女は、見えない目をあけたまま動かぬ手足もそのままで横たわっていました。
実はその3・4カ月前、彼女のお母さんは足首を傷めて、しばらく児童院に彼女を訪ねることができていませんでした。
「Sちゃん、お母さん、ちょっとけがしてなかなか来れてなかったけど、松葉杖ついて歩き出したからもう来るよ」と言いましたら、彼女の顔はみるみる紅潮し、身体をねじるように動かしました。明らかに喜んでいることが分かりました。しばらく他のことを話しても前と同じで反応は全くありません。そこでもう一度、同じことを言いましたら、また顔が赤くなり身をよじりました。まさに喜んでいたのです。私はこの時、人間の感動、感激、感謝の念はその人の奥深いところからのもので、いわゆる脳細胞とは別のものであるように思えました。それは五嶋みどりさんのヴァイオリンに感動した人たちと同じでした
かつて数学者として名高く、またわが国日本の真髄を生涯かけて訴え続けた岡潔先生が、文化勲章を受けられたときのことです。昭和天皇陛下から、「数学はどういうふうに研究するのですか」とのご下問に、「情緒でします」と答えられています。岡先生の後を追うように同じ数学者の藤原正彦氏は、情緒とは美的感受性だと仰っています。いわば美しいものを美しいと感ずる心であり、感動、感謝の心こそ岡先生の言われる情緒なのでありましょう。
古代中国のいわゆる漢語に、次のような一文があります。
智黜道乃得。朴返眞斯全。
(智を黜け道すなわち得、朴に返りて眞斯に全し。)
頭の良さばかりが求められがちな世の中ですが、生きている証のような生命そのものの持つ情緒こそ、尊ばれるべきであると改めて思います。
知的障がい者と称される方々と長くおつきあいしてきて、その奥深い心の清らかさ美しさに改めて感服することです。