信仰と信心 — 仐寿の新春を迎えて
平成28年1月号掲載謹賀新年
あらためて申し上げるまでもないことですが、黒住教は信仰と信心が一体になった宗教です。
信仰とは読んで字の如く信じて仰ぎ、信心とは心を信ずることです。
一昨年、立教二百年を迎えました本教ですが、教祖宗忠神ご立教の時というのは、昇る旭日を大感激の中に呑み込み、まさに神人一体となられるとともに、わが国古来の主宰神たる天照大御神こそ、旭日に現れる天地の親神であることを確信された時であります。
同時に、教祖神は一人の人間としてご自身の心の奥深くに、その天照大御神のご分霊(わけみたま)すなわちご分心が鎮まるという確信を得られたのでした。
従って、大御神様とご一体になられた教祖宗忠神を信じて仰ぎ、同時にわが心に奥深く鎮まります心の神であるご分心を信ずるところに黒住教はあるのです。つまり、教祖宗忠神を信じて仰ぎ、わがご分心を信ずる信仰と信心が一体になるところに私たちの祈りはあります。
天命直授と後に称される文化11年(1814)11月11日(旧暦)の教祖神の御日拝は、お祓いを上げることから始まっていました。
お祓いを上げる、すなわち大祓詞を下腹からの声で唱え続ける修行を、本教では極めて重要視しています。それは、立教の時であるこの天命直授に始まると言っても過言ではないお祓い修行を、教祖神が終生励行されたからです。ある神道学者が、「黒住教の教祖様ほど数多く大祓詞を唱えた方はないのではないか」と言われたことがあります。大祓詞は、今のような詞に整えられたのは1000年ほど昔だといわれていますが、日本人は、神社に詣で、あるいは自宅の神前、神棚で祈る時にこの大祓詞を唱えることを常としてきました。「高天原ニ神留マリ坐ス……」に始まる大祓詞は、この詞の意味を尋ねますと深遠なものがありますが、総じて生命の賛歌です。その言葉の意味を求めるより、私どもは昔からこの大和言葉、日本語の原典ともいえる歯切れのよい母音の連なる大祓詞を、ひたすら唱えることを大切にし、そこに心の祓いをいただいてきました。下腹からの声で唱える大祓詞の生み出す、目には見えませんが“糸”“筋”のようなものを通じてご神徳、ご神威が下腹に鎮まるご分心に注ぎ込まれてくるのを実感できる、まさに心祓われ清らなもので満ち満ちてくる時をいただけるのです。お祓いを上げるという妙味はここにあります。
大祓詞を唱えながら、心の中で「教祖様、宗忠様……」と呼び掛けながらつとめるところに、尊くも有り難い時を迎えることができます。それぞれの願いを教祖神にぶち込むように投げ入れるように、まさに信じて仰ぐ祈りの時です。
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教祖神は天命を直授なされた御日拝の時、大感激の中に迫り来る旭日を思わず呑み込まれました。本教の祈り、修行の元をなす御日拝の始まりです。その中心にあるのが御陽気修行です。これは物理的には空気を飲み込むのですが、あくまで主体は御光に現れる大天地の生気、天地生々の霊気をいただいて下腹に鎮まるわが本体たるご分心に納める思いで、一息ひといきを有り難くいただくつとめです。
いわゆる心の座は脳にありますが、心の神、ご分心は下腹に鎮まります。実は、日本人は古来、そういうことを体得していたように思います。それは、腹という言葉で表す心の働きにあります。“腹がきれいな”“腹がすわっている”“腹のできた人”から“腹が立つ”“腹わたがにえたぎる”“腹ぐろい”等々、腹の一字に深い意味を見出していたのがわが先人方です。ここのところを明らかにされたのが御陽気修行です。
ひとえに有り難いお日の出を求めて、立教以来160年の霊地大元から上がって来た神道山では、毎朝お日の出を迎え拝む御日拝こそ最も大切な祈りの時です。お祓いを上げるところから日拝式は始まりますが、最も長く時間もかけられ御日拝の中心をなすのが御陽気修行です。
腰骨を立てて背筋を伸ばし、下腹を引っ込めて息を吐き切ります。そして下腹を前に突き出しながら御光を呑んで下腹に納めます。じっくり時間をかけて吐き出し、呑み込んだ御光をじっくり下腹に納めていくのです。下腹に鎮まるわが本体たるご分心に、きょうのご神徳をお供えしているような厳かさと感動に満ちた信心の極地です。いつまでもこの時間を持ち続けたいとの思いにかられるような神道山の御日拝です。
御日拝の歌として毎朝いただく御神詠
日々に朝日に向かい心から限りなき身と思う嬉しさ
にこそ、御日拝の真髄が説かれています。まず「日々に」に、教祖神が毎朝欠かさず御日拝されていたことが伺えます。そして御日拝の目指すところは、“天地が我か、我が天地か”といえる天地に溶けこんだような天地一体の境地に至ることです。大御神様のわけみたま=ご分心をわが本体とする私たちは、限りなき天地と本来一体なのであり、御日拝によってその確信がより強く「限りなき身と思う嬉しさ」にほとばしり出るように表れていると有り難く思います。
かぎりなき命の道をみちびかん重ねたまえよよろずよまでも
の御神詠の如く、天地一体の生々の大道、生き通しの道へおみちびき下さる教祖宗忠神を信じて仰ぎ、同時にわがご分心をそれにふさわしいお働きをいただけるようにつとめる御日拝こそ、生き通しへの鍵をにぎる尊い祈りの時であります。
こうして、わが人生という、誰も取って代わることのできない尊い時をより充実したものにしてまいりたく思います。
今年9月18日に、満79歳の誕生日を迎える私は、数え歳80歳、いわゆる仐寿の新年を迎えました。自らに信仰と信心に一層励むべしとの思いでつとめてまいりますとともに、2月13日から始まります伊勢萬人参りに皆様とご一緒できるのを心から楽しみにしていることです。