大本育英会奨学生の集い挨拶
平成27年9月号掲載昭和37年設立の(公財)大本育英会は、岡山県内の学生を対象に奨学金制度を実施してきています。教主様におかれましては、昭和47年以来同会理事として、平成5年以降は理事長として“奉仕の誠”を捧げておられます。
同会の機関誌「藍松」第50号に、昨年8月6日開催の「第53回大本育英会奨学生の集い」における教主様のご挨拶が掲載されていました。今号の「道ごころ」は、先月号に引き続き、同会のご好意のもとに、そのご挨拶を紹介させていただきます。(編集部)
ここで、私は、2つほど、国際的な話をさせてもらいます。かいつまんで申します。
先月の末(平成26年7月)に、私がたまたま上京しておりましたら、かねて親しい、前の京都府の綾部市長の四方氏から電話がありまして、これから総理官邸へ行くから一緒に行ってくれということです。ご存じのイスラエルとパレスチナの紛争、きょうの新聞を見ますと、72時間の休戦というか、停戦になったというように出ていましたが、パレスチナの人たちがガザ地区で千人を超える、これまた無辜《むこ》の人たちです、軍人じゃない、一般の市民、国民が殺されていった。この四方氏、学生時代の、同じ運動でも私はグラウンドの運動ですが、彼は学生運動のほうで暴れておりました。でも、その経験が生きて、後に京都府議会議員になり、そして綾部市長になったときには、イスラエル、パレスチナ双方にそれぞれの人間関係ができておりました。その上に立って、パレスチナ、イスラエルのそれぞれ戦闘で親を失った、あるいは兄弟を失った、そういう中学から高校生を7、8人ずつ招くことを始めました。最初は綾部市でありました。そして、2回目をひとつ岡山でということで、当時の岡山の市長にお願いしまして、岡山市で招いてもらいました。以後、徳島とか金沢とか、昨年は京丹後市、8つの地方都市で7、8人ずつの双方を招いての10日間ほどの日本滞在をいたしました。
岡山でも、それぞれイスラエルとパレスチナの双方の子供を、むごい話かもわかりませんが、一つ屋根の下にホームステイしてもらいました。市民の方々にお世話になりました。一緒に岡山市内や県下をあちこちしまして、ちょうど10年前になりますが、きょうの日(8月6日)に広島へ連れていきまして、原爆の日の慰霊祭に参拝し、ちょうど折から来ておられました小泉総理大臣にも会っていただき、以来、あとの総理大臣、今の安倍総理もそうですが、そのたびに、そういうところまでお連れしてきました。
そういう中で、先月の末、いまだに争いが終わらない今、パレスチナ、イスラエルと等距離にある日本の総理大臣にこそ声を上げてほしいということでお願いに行ったわけです。そういう子供たちが、あなた方のつい弟、妹の世代に当たる人たちが、テルアビブの空港に帰ったときに、1週間、10日の間に仲よくなって、テルアビブの空港はイスラエルの管轄ですから、イスラエルの人はすぐ入国できるのですが、パレスチナの子供たちは2時間、3時間調べられる。なかなか出てこない。イスラエルの子供はそれを待つのです。イスラエルの家族、親族としては、すぐに連れて帰ろうとするのですが、イスラエルの子供たちは、今は仲間となったパレスチナの友達が、空港を出てくるのを待つ。そして、別れるときはお互いが抱き合って、中には声さえ上げて泣いて別れている。その姿を見て、決して争ってはならんということを大人たちは改めて感じるのです。思うのです。考えるのです。ほんの一時期かもしれませんが、そういう形で、70数名の青少年が双方から来て、日本で友好を深めてきた。それは他の国では例がないことでした。それだけに、日本の総理がひとつ声を上げてほしいということをお願いしてまいりました。
もうひとつは、昨日の5日、オーストラリアのカウラというところで日本軍人の慰霊祭を行いました。これはシドニーから350㎞ほど内陸へ入った所ですが、戦時中に1000人余りの日本兵の捕虜収容所がありました。南の島々で病気で、あるいはひもじくて、息も絶え絶えになっていたのを、オーストラリア兵が拾うようにして連れて帰ったかつての日本軍人です。その彼らが、ちょうど70年前の8月5日未明、決起したのです。「おれたちは軍人なんだ、軍人は戦うべし」。それが戦争という中の、我々の今の時代から考えると想像もつかない心理状態です。「仲間は戦っている。戦って死んでいった。なのに、このようにのうのうとしていいものか」。オーストラリアの人たちが親切にしてくれたればこそ、なおのこと、じっとしておれない思いで蜂起しました。トイレットペーパーを投票用紙にマル・ペケで投票したところ、80何%が丸をしたということで、決起したわけです。戦うと言って武器はありません。ナイフとフォーク、いわば死ぬために蜂起した。今の我々からは想像もつかない心理状態ですが、それが戦争というものです。人間を異常な状態にする。その晩だけで200数十名が亡くなったのですが、オーストラリア側は丁重に埋葬しまして、生き残った残りの人たちの罪は一切問わず、1年後に終戦を迎えましたら、海外の捕虜収容所からは、このオーストラリアのカウラからが一番最初に日本に帰還できているのです。縁がありまして、日本人の宗教者として慰霊祭ができていないということをシドニーの日本人会から言われまして、30年ほど前から慰霊祭を続けてきて、もう7、8回になりますが、私も二度行きまして、慰霊祭をしております。また、今回、地元の山陽高校の女子生徒がいろいろな縁から、一緒に行っていまして、その様子はきょうの山陽新聞に出ていますから、ご覧いただきたいと思います。
とにかく、今私たちは、平和の中にいる。なればこそ、戦争のない歴史はないというほどの人類の歴史の中における戦争について、決して傍観するのでなく、しっかりとあなた方の若い、しかも優秀な頭脳で考えていただきたいと思うのです。きょう8月6日は、そういう特別な日でもあることを改めて申し上げました。どうもご清聴ありがとうございました。
(完)