江草安彦氏追悼特別番組より

平成27年6月号掲載

 本誌先月号で既報の通り、去る3月13日、本教ともご神縁深い旭川荘名誉理事長の江草安彦氏が逝去されました。このことは、地元マスメディアにおいても、何度も大きく報道されました。4月26日には、「テレビせとうち」が、追悼特別番組「医療福祉の道江草安彦・旭川荘名誉理事長」を放送し、教主様が、同荘理事長の末光茂氏またノートルダム清心学園理事長の渡辺和子女史と共に出演されました。今号の「道ごころ」には、番組における教主様のご発言を紹介させていただきます。(文責:在日新社)

司会 実は江草先生は亡くなられる1カ月前、ここ資料館(旭川荘)で、旭川荘の60周年を記念した「テレビせとうち」の特別番組に出演されました。その時、このようなことを話されています。「医者は世の中で不幸せだと感じる人が一人でもいる限り役割が済んだとはいえない」「…もし、命が与えられるなら、もう少しやれるならば、障がい者が音楽や芸術活動に親しむ環境を作りたい…」。江草先生が残されたこの言葉について、どのように受け止められますか?

  私もテレビを拝見しましたが、先生が何が大切かということを教えて下さったと思いました。と言いますのも、20年ほど前にバイオリニストの五嶋みどりさんをお迎えされたでしょう。あの時に私もメンバーに加わっていまして、果たして知的障がいの人に伝わるだろうかと、異論のある方がいらっしゃいました。その時に江草先生は敢然と実行されました。事実、100人以上の知的障がいの方が、“カタッ”とも言わずに、まさに静聴していました。ということは、音楽はもとより、芸術という働きは、人間の本体にズボッと直接入っていく。またそれこそがそこを養ってくれる。それは宗教の祈りにも通じるところではないかと思います。だから障がいを持った人にも、ただ聞くだけではなく参加して、自らが演奏する、こちらにも素晴らしいコーラスグループもあるではないですか。そう「ゆずり葉合唱団」(旭川荘創立60周年記念オペラ「アマールと夜の訪問者たち」に出演〔3月15日〕)。この間のオペラもすごかった。肉体的には障がいがあっても、逆にそれ以上に、本体の、世に言う魂は健康そのものなだけに、そこに息づくものを、届くものをやっていかなければならないという思いを持っておられるのだなと、本当に感じ入りました。

司会 ここからは江草先生との出会い、また、どのような存在だったのかをお聞きします。黒住教主は1967年、中国四国地方初の重症心身障がい児施設・旭川児童院開設に向け募金活動をされ、その後も旭川荘の理事として深く関わられています。

  東京オリンピックに続くパラリンピックが終わって間もない頃でした。昭和39年、今から51年前です。私の父は、こちらの創立者である川﨑祐宣先生と無二の親友ということもありまして、江草先生とも親しくさせていただいておりました。学校を終えて帰りまして、しばらくした頃に、ぜひ江草先生に会って話を聞いてこいということで、父が江草先生に連絡を取ってくれました。それが先生からお話を聞かせていただく最初の機会となりました。ちょうどその頃、こちらの資料館にもあります勝山の河本花先生が中心となって、愛育委員会が全県下に呼び掛け、重度心身障がい者施設をつくろうという運動に一区切り付けられていました。重症心身障がい児、まだその当時、これは法律用語にもなかったような時代ですが、一人の身で三重、四重の重い障がいを持っている子供、ですから「重」という字には「重い」と「重なる」という二つの意味があるのですね、そういう話をして下さって、ぜひともその施設をつくろうじゃないかと。熱かったですよ、今から思うと、長く弟のようにかわいがっていただいた身からしますと、一種の命令でしたね、嫌とは言えないような迫力がありました。それで、当時の若い連中と何とかしようと、当時先生の片腕であられた柴田武男先生と一緒に、いわゆる重症児を持つご家庭を訪ねるのですが、なかなかカメラを向けることができなかった。百聞は一見にしかずで、そういうお子さんの生活を他人様に見てもらって理解を深めてもらわないと、という思いでしたからね。でも3人のお母さんが自ら手を挙げて下さって、最終的に、当時、映画が多くの市民の娯楽の中心であった頃に、中四国の映画館でその生活ぶりを、シネマスコープで撮って、上映していただきました。またそういう子供さん方の生活をパネル写真にしたりして、各地で半年間ですが、ちょうど50年前の今頃です、街頭募金などして、いわば、河本花先生の後を継がせてもらいました。それを更に、山陽新聞社の小寺正志社長のところに江草先生は乗り込んで説得し、新聞社は社告を打ち、社を挙げてのキャンペーンとなりました。そうした大きな渦となって、児童院ができました。

 私が忘れがたいのは、それから数年後のことだったかと思いますが、江草先生がぽつりと言われたのです。「重症児、またその家族のために、自分はどれだけ役に立っているのかと思うときに、自らの至らざる、非力を思わざるを得ない」と。何と自分自身に対して厳しい思いを持ってこの旭川児童院に取り組まれているのかと思いました。

 私どもはいわば応援団に過ぎませんが、そういうところを知ってから、人の生きよう、生き方の大切なところを教えて下さる兄貴のような気持ちが募りました。

司会 江草先生が最後に監修された本「果てしなく続く医療福祉の道」の中で、現在の旭川荘は終着点ではない、とされています。また、「立ち止まるということは後退の始まりである」という川﨑初代理事長の言葉も引用されています。80歳を過ぎて、児童養護施設や乳児院などを広域で運営する社会福祉法人を新たに立ち上げられるなど、まさに「道、終わりなし」の人生であったように思われます。身近で共に歩まれた皆様、江草先生はどのような生き方であったか、その精神はどのように受け継がれていくのでしょうか、お話し下さい。

  私は江草先生にこのことを話してはいませんが、ずっと見ていて思うのは、先生は障がい者問題を通じて世の中の人の心を拓き養う、そういう使命感のようなものをお持ちではなかったかということです。ですから旭川荘そのものが聖地で、障がいを持っている人は神様仏様であり、江草先生をトップに末光先生や職員の皆様方は聖職者です。神父であり牧師であり、神主でありお坊さんであると。われわれは信者で、だからここへお参りするようにやって来て、奉仕の汗を流して、そして非常に心洗われて爽やかな思いで帰っていくのです。江草先生は、そういうものを肌身に感じながら、旭川荘だけでなく、広く障がいを持った方をはじめとして、そういう方々への誠意、誠実さというものが、結局は世の中を清めていく、人を高めていく、その姿勢を身を持って示し残された方だと思います。ですから先生は敬虔なクリスチャンであると同時に宗教者であったと思います。非常に崇高な精神を持った、そういう意味でも良い兄貴を持ったと誇りに思っています。