赤木忠春高弟の百五十年祭

平成27年4月号掲載

 来る4月19日、赤木忠春高弟の百五十年祭が、忠春神社(岡山県久米郡久米南町中籾)において斎行されます。それは同時に、当神社が改築27年の御祭りにもなります。

 赤木高弟は、教祖神の数ある直門高弟の中でも教団内に知らない人はいないと思われますが、なんと申しましても、京都神楽岡・宗忠神社は赤木先生なくしてはありえなかったと言えるほど大きなお働きをなした方です。

 その信仰心の強さ深さ、そしてほとばしるような情熱とそこに生まれる行動力は、本教に今に右に出る人はいないと言っても過言ではないと思います。

 その人となりは、8年間の盲目で心打ち砕かれて人生のどん底にあえいでいたのが、ただ一度、教祖神の二・七の御会日におけるお説教を拝聴する中に、心開いて真素直な心に立ち直り、そこに純粋な熱いものが湧き出でて、大感激の中に開眼のおかげをいただかれたところにも、如実に現れています。それは、弘化2年(1845)11月のことでした。教祖神御歳66(数え年)、赤木高弟30歳の時です。71歳で昇天された教祖神ですから、赤木先生はわずか5年の間に本教教師の中心的な存在になられたのでした。

 この年弘化2年3月に、教祖神はご生涯6度の最後となる伊勢神宮参拝を無事に終えられ、翌弘化3年3月8日には、有名な御逸話である、児島沖(現岡山市南区小串)で難船に遭った時、
 波風をいかで鎮めん海津神天つ日を知る人の乗りしに
と詠まれて大風がたちまち鎮まったこと、その10日後の18日には、玉井宮(岡山市中区東山)において「惑乱せむとする天下の人心を鎮定し天照大御神の御神慮を安じ奉らむ」との激烈なお説教をつとめられるなど、教団は熱く燃えていました。

 また日本列島の周辺では、南アジアの国々を植民地化した西洋の列強が、わが国の開国を求めてその覇を競うような時代に入っていました。

 時代が人を生むということを申しますが、赤木高弟はまさにそういう時代が生んだ傑物と言えましょう。

 教祖神ご昇天後に、御神裁で京都布教をいただいた赤木高弟の獅子奮迅の活躍はめざましく、ついに時の関白九條尚忠公のご息女夙子姫の入信となり、すでに姫は孝明天皇の御后であられただけに、孝明天皇に御前講演申し上げる栄にも浴します。

 九條関白を筆頭に公卿方が次々と入信し、江戸時代最後の関白をつとめ、明治時代になって幼い明治天皇の摂政の任にも当たった二條齊敬関白、また三條實美公など公卿方が神文を捧呈して御道信仰に励まれたのでした。これは、いつに赤木忠春高弟の説かれた教祖神の天命直授にあったと確信します。ここに明らかになった「神人不二」。すなわち大御神様のみわけみたま(ご分心)の鎮まる人はまさに日止で、御道信仰は「生き通し」の道であることが公卿方の心の光、柱となったのでした。風雲急を告げるこの時代、それだけ公卿方は命懸けの日々の中におられたのでありましょう。それは二條齊敬公の御筆に明らかです。

 「文久2年の夏のころ 宗忠神の遺教の歌を 拝写して神社に納めける  かぎりなき天照神と我がこころへだてなければ生き通しなり 右大臣 藤原齊敬」

 赤木高弟の至誠はまさに天に通じ宗忠大明神の神号を賜り、ついに全国の神社を取り仕切る吉田神社から、その東南の高台、その名も神楽岡という地の提供を受け、宗忠神社はご鎮座になったのでした。

 時に文久2年(1862)2月25日。この日の赤木高弟の「信をたのむぞ! 信は神ぞ。信は人ぞ。誠をたのむぞ! 誠こそ道ぞ!」の火の出るような説教は、今に耳に聞こえてくるようです。

 この年同じ2月には、孝明天皇の令妹和宮様が将軍徳川家茂公に降嫁され、長く久しきにわたった皇室と徳川将軍家との確執は解け、まさに公武合体なり、しかも翌文久3年8月にはいわゆる「七卿落」で、攘夷論に終始していた三條實美公ら7人の公卿方は長州(山口県)に流されるなど、開国維新への道が開けていきます。

 思いますのに、ここにも、赤木高弟のお説きになった教祖神の天命直授に始まる天照大御神の大道が生きてはたらき、対立的なものを超えて、一段と高い所に孝明天皇をはじめ中枢の方々が立たれた証を見るものです。

 しかし、赤木高弟の、激しいばかりの信仰と熱情に心服していた、三條公ら若き公卿方が長州へ流されるとき、警護に当たったのが岡山藩士であったことから、岡山藩の本教に対する迫害が急に強まってきたようです。そうでなくても、名君の誉れ高かった藩祖池田光政公にして下賜されたのは霊神号なのに、池田藩の守護神社とはいえ今村宮の禰宜職にすぎなかった教祖神が「宗忠大明神」という最高の神号を賜り、しかも王城の地京都の吉田神社の境内地を提供されて宗忠神社が鎮座するなど、当時の岡山藩にとっては不快なことばかりで、教団本部への圧力は相当厳しいものがあったようです。中国の古事に〝泣いて馬謖を切る〟というものがありますが、その頃の本部当局は赤木高弟に引退してもらうべく三代宗篤様(御歳16歳)の名のもとに、大元家(教団本部)への出入りを禁ずるの書状を、赤木高弟の愛弟子本多応之助先生に託して届けています。本部当局の決断が、どんなに苦汁に満ちたものであったかが伺えます。岡山藩の中にある教団という組織防衛のためには、個人を切らざるをえなかった当時の先輩の苦衷を拝察することです。

 その後、あれだけ功績のあった方を破門するなど、なんてことを……という声が、教団内に起こり久しくくすぶっていたことも事実です。しかし、平成4年、皇學館大学元教授の真弓常忠先生が、神楽岡・宗忠神社ご鎮座百三十年の記念誌「孝明天皇と宗忠神社」を執筆されるに際しての研究調査で、事の真実が明らかになりました。

 130年前の明治18年4月18日、大元・宗忠神社ご鎮座に際し、三代宗篤管長は赤木忠春霊神に敬意と感謝の心を込めて「大教正」の教級を贈り、あらためて高弟を顕彰されていますが、三代様のご心中いかばかりであったか、思うだに胸が熱くなることです。

 二・七の御会日 教祖神のご在世中、月の中の二と七のつく日にお説教がつとめられていた。それはまた岡山藩の武士の休日でもあった。