「向井修二記号展」記念鼎談
教主様と向井修二氏と澤原一志館長
平成26年8月号掲載
本誌6月号で既報の通り、4月29日「昭和の日」、高梁市(岡山県)の成羽美術館において、教主様は、昨年黒住教宝物館に作品を制作献納下さった向井修二氏、また同美術館の澤原一志館長と鼎談をつとめられました。この鼎談は、高梁市成羽美術館新築開館20周年記念の「RESTART はじまりの場所-向井修二記号展」のイベントとして開かれたものです。今号の「道ごころ」は、鼎談の折の教主様のご発言の要旨を紹介いたします。(編集部)
向井先生がお若い頃、そのメンバーであった具体美術協会(注1)についてどう思われますか。
具体美術協会は昭和30年頃に、わが国におけるこれまでの美術に対する既成概念を破ったと思います。破ったところに、活力のある、魅せられる、新しいものが生まれ出てきた。
結論として、日本人は、度々既成概念を破って、あるいは破られて新しいものを生み出す…を繰り返して生きてきた、日に新たに生きてきた民族であると思います。具体美術協会は、そういう意味でとても日本的な、芸術界においても典型的な動きだったと思います。
黒住教宝物館のインスタレーション(注2)制作の機縁について。
きょうお集まりの方の中には、なぜここに宗教者の私が居るのかと疑問に思った方もいらっしゃるでしょう。一昨年、今、会場に来られている備前焼作家の島村光さんと、兵庫県の丹波篠山にある兵庫陶芸美術館に、かつて荒木高子という“砂の聖書”をはじめとした聖書シリーズを作られた陶芸家の回顧展を見に行きました。帰りに「友達の家に寄ってみませんか」と誘われて、向井さんの御宅を訪ねました。中に入って、記号ばかりでびっくりしました。最初に私は記号と思わなくて、落書きのように思いました。そしてご本人をご紹介いただいたのですが、いつのまにか向井さんは居なくなって私と島村さんと二人だけで、向井さんは作品の中に溶け込んでしまっていたのです。こんな作品は初めてでした。後日、島村さんが、「神道山に、一つ向井さんに描いてもらったらどうでしょう」と仰(おっ)しゃいました。その内、向井さんがトイレに描かれた、ニューヨークのグッゲンハイム美術館での展覧会が開かれました。「神道山のトイレに描いてもらってはどうだろう」という話もありましたが、とりあえずご本人に来てもらって建物を見ていただきましたら、宝物館の二階から一階に下りる曲がる階段の裏に向井さんは着目されました。階段の裏という無意味なところを、無意味な記号で埋めつくして、意味のある空間が生まれました。出来上がった時、この島村光さんが、文学にも長(た)けておられるのでしょう、芭蕉の「荒波や佐渡に横たふ天の河」と表現されました。向井さんが制作されていた去年の5月から6月は、それは素敵な時間でした。
宝物館でのインスタレーション制作中のこと。
ニューヨークのグッゲンハイム美術館は、巨大な渦巻き状の形をした建物で、建物そのものがアメリカの国宝級の美術品です。世界の現代美術の最先端であり、美術家にとっては憧れの美術館です。そこで思いの丈(たけ)やった向井さんも良い度胸をしているし、それをやんやの喝采で迎えたアメリカの人も凄いと思いますね。その次に神道山でとなって、階段裏に、三日か四日の制作期間中、長時間一緒にいて思ったことは、「これはわれわれの世界における祈りだ」ということでした。宗教には共通して祈りの言葉がありますが、仏教ではお経、われわれでは大祓詞(おおはらえのことば)ですね。千年の昔から日本人が神に祈るために使う言葉です。仏教者の方に聞いてみたことはありませんが、お経の言葉の意味を考えながらお経を上げてはいられないのではないでしょうか。お経を上げること自体に意味があると。われわれもお祓いを上げる時、言葉の意味は考えていません。朗々と下腹からの声で上げることに意味があることを、私も体験的に知っています。この向井さんは、お祓いを上げているなと思ったのです。これは考えてできるものではない、湧き出ているものだと。頭でやっているものではなく腹でやっているのだと感じました。これが無心の作か、と思いましたね。
向井氏に贈られた「天地の活物(いき もの)をもって自他を活(い)かす」という言葉について。
向井さんの制作中の姿を見ていて、そう感じられて、手紙に書かせていただきました。向井さんが描いているのだけど彼が描いているのではなく、誰かに描かされているように思いました。われわれがお祓いを上げているときも、お祓いがだんだん進んでいくと自分が上げているのではなくて誰かに上げさせられているような、お祓いの言葉を引っ張り出されているような感覚になる。それに近い感じで描かれているのだなと感じました。
かくして宝物館の階段の裏にインスタレーションができました。
宝物館が別世界になりました。これは何だ?っていう驚きと感動があります。要は、芸術で大切なことは、感動を、それで得ることができるかということです。“分かる”“分からない”とよく言いますが、それは頭で考えることではなくて、感じ取ることです。先日来よく話しているのですが、“アインシュタインのヴァイオリン”という話があります。アインシュタインは、偉大な科学者ですが、子供の頃はヴァイオリンを弾いてばかりで、全然勉強をしなかったそうです。ある日、突然目覚めて理科系や数学の勉強をし始めて、あれだけ偉大な科学者になった。それは子供の頃にヴァイオリンを弾くことによって感性が磨かれていたからなのですね。人間にとって基本的に大切なのは感性がどれだけあるかで、それが特に問われるのが芸術の世界だと思います。
ところで、向井さんの作品がなぜ力があるかを、私はそれこそ考えるのではなくて感じているのですが、向井さんの言葉で先程も言われていましたが、“作品は排泄物(はいせつぶつ)だ”と。排泄物は捨てる物でしょう。それを聞いた時に、この人は、作品は形あるものですが、もっと大切なものがあるということを、作品を通じて訴えられているのではないかと思いました。自身の深いところにある形はないものの、そこで天地に繋(つな)がっている。そこからにじみ出る、はじき出る、ほとばしり出る、それが形を成すのだと。形を成したとき、向井さんにとってはもう終わったものなのですね。きょうもわざわざニューヨークから来られた人がありますよね。引きつける力が無ければ、わざわざ日本に来られないと思います。それだけの力を生み出している。向井さんはそういう生き方、作家としての姿勢をお持ちだと思います。
(注1)
具体美術協会-抽象画家の吉原(よしはら)治良(じろう)氏を軸に昭和29年(1954)、関西で設立。従来の美術の常識を破る新たな美術を志向した。島村光氏もご縁があった。
(注2)
インスタレーション-作品を単体としてではなく、展示する環境と有機的に関連づけることによって構想し、その全体を一つの芸術的空間としたもの。