昇る朝日に手をあわせる(上)
日本のお天とうさま信仰を昇華させた黒住教。立教200年。

平成26年6月号掲載

 本誌3月号で既報の通り、去る1月22日、都山(とざん)流尺八「清芫社」(京都市)社主の三好(みよし)芫山(げんざん)師が霊地神道山に参拝、大教殿において尺八の献奏をつとめた後、教主公邸において教主様と対談されました。先頃発刊なった、三好師の後援会「芫志会」の会報「Genzan News」第100号に、100号の記念としてこの対談の模様が掲載されましたので、同会のご好意により、今号と次号の「道ごころ」に転載させていただきます。

 なお、芫志会は、臨済宗相国寺派管長有馬頼底師や茶道裏千家前家元千玄室師、サントリーホールディングス株式会社副社長鳥井信吾氏、画家の千住博氏等が役員に名を連ねる全国的な組織です。(編集部)

教主黒住宗晴


日の出に手を合わせる日拝 日本人は昔からお日拝大好き人間なんです

 芫山:今年、黒住教は立教200年という素晴らしい年。実は、私の後援会の会報「芫志会報」(本紙)も今回で100号となるんです。200と100、もちろん対比できるものではないんですが、今回、黒住教主様に登場していただけてありがたく思っております。よろしくお願いします。

 黒住:いえいえ 。先生には、京都の宗忠神社の150年の記念祝祭の時に御献奏いただき、そして今日、200年のこの年においでいただき、こちらこそ本当にありがとうございます。

 芫山:以前、こちらに寄せていただいた時に「日拝壇」から朝日が昇るのを拝ませていただいた時の感動が今も印象に残っています。私の家は上賀茂神社の近所で、いつもあの辺りが散歩のコースです。朝早く散歩すると、加茂川にかかる御薗橋からお日さんが上がるのがよく見えます。その時「教主は毎朝これを拝んではるんやなぁ…寒い日はほんまにご苦労さんやなぁ」て(笑)。朝日を見るたびにこちらを思い出してるんですよ。この日拝(にっぱい)というのは立教当初からなんですか?

 黒住:立教の時というのが、教祖の日の出を拝む「日拝」なんですね。

 遡(さかのぼ)ると、教祖は幼少の頃から両親と毎朝、お日様に向かって手を合わせてきました。それは何も黒住家だけでなく、お天とうさま信仰という日本人の伝統ですね。

 その両親が当時の疫病でバタバタと亡くなったのが、教祖の心の病となり、ついに明日をも知れぬ病、労咳・肺結核になりまして死を覚悟。せめて最後に両親と共に拝んできたお日様に、最後のお別れをしようということで、日の出を拝むわけです。

 その時、お日様そのものが親の心で、親孝行を唱えながら、この今の自分がどんなに心配をかけているのかと 〝今、死んでるヒマはない〟(笑)ということでしょうか。

 芫山:(笑)何かものすごく失礼かもしれませんけど、わかりやすいですよね。そこが、教祖が日本人、という黒住教ならではのものなんでしょうね。記章も日の丸に似てますし。

 黒住:ええ、もともとは日の丸だったんです。日の出を拝んで誕生しましたから、黒住教の旗は日の丸だったんですが、明治3年でしたか、日の丸が国旗として規定されたため、国旗と一緒ではもったいないということで、日の教えの「教」の字を白抜きにしまして、マル教に。

 芫山:日の丸はこちらが先だったのですね(笑)

 黒住:まあ、もともと日の丸は、遥か昔から日本の船などに掲げられていましたから。日本人はともかくお日様大好き人間なんです(笑)
同じ日の出はない。毎日が日(ひ)に新(あらた)です

 芫山:教団本部をこちら神道山(しんとう ん)に移されたのは?

 黒住:立教以来160年間、教祖の生誕地である大元(おおもと)に本部があり、昔は田んぼの中でした。日の出も素晴らしかったらしいです。それが、新幹線が通るわ、瀬戸内海に橋はかかるわで都市化が進みましたから、これでは日の出がありがたく迎えられない。日の出を拝む、その場所が一番大切な所とする私たちにとって、ビルの角から昇るお日様では…ね。日拝が命、ですから。

 それで、壮大な日の出を求めて昭和48年にここ神道山に移ったわけです。

 芫山:なるほど。今回の景勝は今後も変わらないと また周囲に高いものが建ったら困るけど(笑)

 黒住:そうですね(笑)ここは標高120メートルですから、まず大丈夫だろうということで、ここに落ち着きましたけど。

 芫山:しかし毎日となると、暑い時、寒い時とか、気象の影響も大きいんでしょうね。

 黒住:そうです。同じお日の出はありませんよね。昇る場所も時間も違いますし。だからまさに毎日が〝日(ひ)に新(あらた)〟です。

 芫山:僕たちも、同じ曲をいろいろな場所で吹きますが、それは、その時々で初めての演奏だと思うのと、通ずるところがありますね。


田舎の新興宗教が天皇の勅願所(ちょくがんしょ)に

 芫山:京都の宗忠神社の150年の時には私も献奏させていただきましたが、あの場所というのは吉田神社の東南で、非常にいい場所ですよね。何かいきさつがあるんですか?

 黒住:吉田神社が土地を提供してくださったんです。本殿の東南の高台を。何でそんないい場所を、当時はまだ田舎の新興宗教の一つにしか過ぎない私たちにくれたのか?(笑)それは、孝明(こうめい)天皇の勅命ではないかと思っています。証拠はありませんが、そう信じております。

 教祖が亡くなった後、弟子が各地に布教に出たのですが、京都を担当した弟子は非常に熱のある人で、その布教活動が繋(つな)がっていって九條家のお姫さまが信仰されるまでになったんですね。そのお姫さまは孝明天皇のお妃(きさき)であったことから天皇様の知るところとなり、また江戸時代の最末期という時代でもありましたから、黒住教の教えとはどういうものかと非常に興味を持たれ、ついには「宗忠大明神」の神号を賜って宗忠神社は建立され、孝明天皇の「勅願所」ともなった神社です。だからこそ、吉田神社もあの場所を提供してくれたんでしょうね。

(つづく)